豊臣秀吉が発布したと言われる「刀狩令」、小学校の歴史でも習うはずですが、あまりにも有名すぎるためかその原本に戻って検討するということはほとんどされていないようです。
しかし、現在残っている刀狩令の原本は約20通、それらを見ていくとその内容が少しずつ違うことが分かります。
しかも、鹿児島の島津家、福岡の立花家に伝わったその文書はなんと2通ずつあり、それが全く同じではなく内容も違っているということです。
これはどちらかが原本で、どちらかが写本の写し間違い?、しかしどちらにも秀吉の朱印が押されています。
こういったところから調べていくと、秀吉が天下統一した時代の行政命令の出し方、届き方など、色々なことが分かってくるようです。
立花家、島津家、そしてそれ以外の大名家に残された文書でも、それだけがポンと置いてあるわけではありません。
立花家の場合は、「義―乙」と呼ばれる文書箪笥の中に、他の13通の文書とともに収められていました。
それらはすべて秀吉の朱印が押されたその時代の公式の文書であったそうです。
刀狩りということは、秀吉が勢力を広げた全域で行われたと見られますが、この「刀狩令」という文書が送られたのはその全部ではないようです。
発見されている20通も九州に多いという特徴があります。
その辺にどのような事情があったのか、まだ研究途上でありはっきりとはしていないようです。
すべて原本と見られる文書でも用語が違ったり字の書き方が違ったりということは、そのころには秀吉には右筆が何人も(おそらく10人以上)居て、それぞれがすべて元の文書と同じように書いたわけではないからと見られます。
ある程度は文書例がありそれを写したのでしょうが、細かいところは違っていても可としていたのかもしれません。
ただし、島津家、立花家に2通ある理由は正確には分からないようです。
このような政令の場合は高札として貼り出して公表したとも考えられますが、その場合は写しを取って写しを貼ったという方があり得るようですし、他の大名家にも同様に残っていても良さそうなものです。
1588年(天正16年)には秀吉はバテレン追放令と呼ばれる朱印状を出しました。
これらは、実際にその対象となるバテレンたちに書状を渡されたという事情があり、彼らがイエズス会の正式史料として保存したということもあって、原本がきちんと記録されました。
このため、こういった書状の発布の事情や伝達のされ方が残っているという状況でした。
もちろん、イエズス会側の資料では彼らの都合も含まれているため史実そのものではありませんが、よく推測できるものであるようです。
このような有名な歴史上の史料でも、細かく見ていけば新発見がいろいろとあるということでしょう。