学校の先生の思い出といっても、一番最後の大学の先生でももう50年近くも前の話であり、記憶も相当薄れています。
まあ間違ったことを書いたとしてもそれを知る人はほとんど居ないでしょうから良いか。
高校に入って、(まだ高校以後の学校名は公表していないので、S高校としておきます)(とはいえ先生の名前は実名ですので分かる人は分かるか)
最初の担任が石川旭先生。世界史が担当でした。
とはいえ、ひたすらおとなしい感じの方であまり強い思い出はありません。
それより強烈だったのが、同じ石川でも石川一成先生。
現代国語担当でした。
とはいえ、淡々と講義をこなすというタイプではなく雑談放談連発。
先生の話で今でも印象深いのが、私の本名、〇沢の「沢の字は濁るのか濁らないか」と聞かれたことです。
「濁りません」と答えたら、石川先生は「沢の字は濁らないと腰が据わってないように聞こえるな」と勝手な印象を言っていました。
なお、どうやら北関東では濁らない方が普通らしく、そちらの出身だったのでしょう。
石川先生は私生活でも豪放なところがあったようで、卒業後しばらくした時に酔って家に帰る途中に事故にあって亡くなりました。先生方の中では最も早い逝去でした。
高校2年になる時にクラス替えがありそこから担任になったのが山田勉先生。
体育教諭でした。
ちょっと見た感じは豪放磊落といったものですが、実際には心の中は繊細といったムードがありました。
S高校では体育の先生は職員室ではなく体育館の隣の体教控室というところにいることが多く、話をするときにはそちらに行きました。
進路決定から入試、そして一年目はダメで浪人した後、二回目で志望校合格といった節目には先生の所に報告に行き、合格の時には喜んでもらえました。
大学では各教科で様々な教授の講義があり、中には有名人もいましたが、やはり専門課程で卒論研究の指導をしていただいたC助教授と研究室のトップだったK教授には大変お世話になりました。(ご両人もまだ存命のためイニシャルのみにします)
C助教授には卒論研究だった植物の重金属分布と成育の関係というテーマについてご指導いただいたのですが、なにしろ植物成育は年一回のことでありそれを卒論研究にしたのでは間違えてもやり直しは利かず、満足のいくものではありませんでした。
K教授には直接教えを受けることはあまりなかったのですが、忙しい中でも自分の実験を時間が空けばやっている姿は学生から見てもぐっとくるものがありました。
なお、学問分野の関係で企業とのつながりというものもほとんどなく、私が大学院に進まずに就職するということを聞き、「就職じゃあまり力になれないな。県の試験場なら紹介できるんだが」と言って貰えたのですが、公務員試験を受ける気も無かったのでその言葉に甘えることもできませんでした。
K先生から見てもよほど頼りなく見えたのか、卒業後数年してお見合いの世話までして貰えました。
お世話になった先生方もほとんどの方は逝去、ご存命の方も相当な高齢となってしまいました。自分自身も高齢者の仲間入りですから仕方ないことですが。