最近、雑草Zさんと太陽光発電などのEPRについて議論をしていたのですが、どうも私の主張していた点にも穴があるように感じてきました。
それは「EPRの計算において数え落としが多すぎる」というもので、それを是正するためにも厳密な計算法の確立をすべきとしていました。
しかし、その点は改善の余地が大きいものの実際にはもっと大きな問題があるのではと感じ始めています。
それが、「EPRが10程度の発電ではこのエネルギー依存社会を支えられない」ということです。
太陽光発電のEPR(Energy prfit ratio)(エネルギー収支)は初期の5程度という話から最近では効率向上により10以上になったとも言われています。
しかしその計算方法には大きな数え落としがあると思いそれを主張してきたわけですが、どうも「たとえEPR10となってもその程度のエネルギー収支ではこの膨大なエネルギー需要のある社会は充足できないのでは」ということに気づきました。
なお、ここでいうEPRとは本来の意味ではなく、入力エネルギーの中で直接エネルギー源となるもの、太陽光であったり風力のエネルギーを数えないというものとします。
すると、発電装置の製造、設置、維持管理、廃棄などに要するエネルギーに対して、出力である電力のエネルギーの比を指すこととなります。
それが10程度とはどういうことか。
発電装置の再生産に要するエネルギーを1とすると、せいぜいその9倍程度のエネルギーしか生み出していないということです。
その部分だけが社会で使えるエネルギーとなります。
その程度のエネルギーでは現状のエネルギー依存文明社会を動かすには全く足りません。
少なくとも、そのEPRの値で数千から数万が必要なのでは。
実はこう思ったのも火力発電所というものを比較で考えたことによります。
火力発電所では燃料として使う石炭や天然ガスが大量であり、もしもそのエネルギーを発電所のEPR計算上の入力エネルギーと算定するなら、当然この発電所のEPRは1以下となります。
しかし、計算上の仮定として太陽光などと同様に燃料エネルギーは無視するとするなら、発電所建設や維持管理、廃棄などのエネルギーに対して出力となる電力の比を取ればよいこととなります。
現在の大型火力発電所の出力は大変な大きさであり、200万Kwというものもあります。
しかもその寿命も太陽光発電の20年などと言う短期ではなく40年から50年とも言われています。
そういった大型発電所は建設などもエネルギーも莫大なものでしょうが、それでも出力から見ればごくわずかと言えるでしょう。
そういった発電所だからこそ社会全体の電力エネルギーを供給できたと言えます。
それを使わなくなったからといって、EPR10程度の太陽光発電などで賄えるのかどうか。
やはり桁違いに低い能力であり、それに頼るわけにはいかないということでしょう。
なお、こういったことでも素人で門外漢の私にとっては必死で頭を働かせて考えだしました。
もちろんエネルギーや電力の専門家であれば常識でしょう。
そういった人たちはなぜ「こんなものに電力供給を任せられない」と言わないのでしょうか。
そこに専門家不信感が生まれる原因があると思います。