このブログでは「エネルギー文明論」というカテゴリーを作りいろいろと書いてきましたが、最近その初期の文章を「雑草Z」さんが読んで下さり、コメントを頂いたことがありました。
sohujojo.hatenablog.comそれによると上記の産総研の解説ページはすでに無いが改めて探したということで、同様のものがコメント内で紹介されていました。
その記事はあまりにも乱暴な書き方がされているため、ここで引用はしません。
しかし、どうやら「EPR (Energy Profit Ratio)」というものに対して大きな見解の相違がありそうです。
その主張では火力発電などは燃焼させるために石炭などを投入しており、それのエネルギーを考えればEPRは1以下だということです。
それに対し、太陽光発電は入力エネルギーの太陽光は「無料だから」入れなくていいのでEPRは高いとしています。
どうもこの辺の論理が乱暴と感じます。
そこにはどうやら、「発電装置」というものが「エネルギー発生装置」だと誤解されているのではないかと疑いを持たせられます。
もちろん、エネルギーを何もないところから生み出すなどと言うことはエネルギー保存則に反します。
「発電装置」というのは実際には「エネルギー変換装置」であるにすぎません。
これを模式図に書けば下のようになります。
なお、この図では火力発電も太陽光発電などもすべて同じように表せることに留意してください。
ここで、入力エネルギーの量をIE、出力エネルギーの量をOE、発電装置の製造・建設・維持管理・廃棄処分などに関わるエネルギーの量をSEと表します。
すると、EPRは EPR=(OE)/(IE+SE)となります。
ここで、エネルギーの変換の場合は必ず OE/IE <1であるのは当然です。
したがって、それにさらに分母にSEが加われば、EPRも1よりかなり低いものとなります。
火力発電ではEPRは1より小さいというのはそれを主張しているわけです。
ただし、これは太陽光などの場合も同様であり、太陽光の持つエネルギーから比べればそこから取り出せる電力は小さいものです。
これを「太陽光は無料だから無視してよい」というのは少し乱暴だということです。
さて、私がこれまでにもこのブログの「エネルギー文明論」のコーナーで主張しているのは、太陽光発電のEPRが小さいことですが、そこでは上記のような「太陽光も入力エネルギーと考えるべきだ」という原則はあえて言及していません。
それを仮に EPR(仮)とすると、EPR(仮)=(OE)/(SE)としています。
そして、それでもSEつまり装置の製造から建設・維持管理・廃棄までに費やすエネルギーが太陽光発電の場合は大きすぎ、それに対してOEつまり得られる電力量があまりにも小さすぎると言っているわけです。
これは同じようにエネルギー変換システムである火力発電所でのSE、すなわち発電所の建設・装置製造から廃棄までのすべてに費やすエネルギーに対し、OEすなわち発電所の寿命の間に取り出すことのできる電力量が非常に大きいことと対比できます。
これはもちろん、その場合に必要とされる燃料(石炭・石油・天然ガス等)は大量なのですが、これはその燃料の地球上における残存量を考えると問題なのですが、発電装置としてみればそれが高効率であることを示しています。
正確な値は計算困難ですが、非常におおまかな数値として、火力発電所のSEを100とした場合にその発電所の運転期間で得られるエネルギー総量(総発電量)は桁違い、1万とか10万といったものになるかもしれません。
それに対し、太陽光発電所のSEとして同じように100となるだけの装置を考えた場合、その運転期間で得られる電力エネルギー総量は100も行くでしょうか。
せいぜい数百では。
このように、発電所というエネルギー変換システムを考えた場合に、EPRという指標を厳格に持ち出すと少し分かりにくくなる恐れがあります。
それよりも、得られる電気エネルギー(上記ではOE)に比べて装置製造等に必要なエネルギー(同SE)が、太陽光発電や風力発電の場合にはあまりにも大きすぎることが大きな問題であり、これは経済コストとも大いに関わるために一般的にも分かりやすい欠点ではないかと考えます。
なお、これはいわゆる自然エネルギーの中でも地熱発電や潮汐発電といったものではさらに欠点が拡大します。
言ってみれば「あんなバカでかい装置作って、得られる電気はそれだけかい」ということです。
さらに、洋上風力発電というものもこの欠点が大きく、地上風力発電もさほど良いわけではないのですが、それをはるかに越える装置製造建設エネルギーを必要とします。
以上、EPRを厳密に考察するのは不可欠なことですが、それで分かりにくくなることもあるという話でした。