説話とは神話や伝説、民話などを指しますが、その中に自分の思想を伝えるためという意思を持つものです。
古代中国には古くから多くの文書が残っており、その中には司馬遷の史記に始まる歴史書も含まれますが、その他にも様々な書があります。
史書として扱われているものの中にも説話が入り込んでいる例は多く、どこまでが歴史的事実かということを判断するのは難しいものとなっています。
著者の落合さんは歴史学というものが人文科学として扱われ、社会科学ではないのはこの説話と史実との境があいまいだからだとしています。
しかし多くの歴史学者はそれをあえて明らかにしようとせず、説話にも歴史的事実が反映しているといった態度を取りました。
そこには多くの歴史学者が昔から説話になじみ、それを機に歴史学に入り込んだという理由も反映しています。
しかしやはり説話は説話としてはっきりとさせ、歴史的真実は厳しく取り分けるという態度がない限り、歴史学は進まないものです。
そのような思想でこの本は書かれており、これまで史実として考えられていたことが多いものの中で説話的性格を持つものと、その当時の真実の状況を解説しています。
こういった説話が生まれた背景には、中国古代でも戦国時代後半の百家争鳴と言われた思想家たちの活躍の時代があるようです。
彼らは自分たちの意見を主張するための手段として古代の歴史にそれを投影して使おうとしました。
そのために実在の国家や人物、さらに架空の人物まで作り上げてしまいました。
その話はやはり面白く作ってあるため、聞く方も受け入れやすかったのでしょう。
しかし、私もやはり多くの物語を中国古代のものとして読んでおり、そこに何らかの史実が反映されているのではと思いながらいたので、それをはっきりと「すべてが創作」と言われてしまうとちょっと夢が壊れる思いです。
それでもまあ、我慢して内容紹介しておきます。
中国古代でも三皇五帝や堯舜禹の話などはさすがに後代の創作だということは明らかですが、禹に始まる夏王朝は何らかの史実が反映されているだろうとは思いますし、中国では歴史学者もその実在を主張しています。
その頃の遺跡として二里頭遺跡が発見され、中国ではそれが夏の王朝にあたるとされていますが、確かに時代は当たるものの、その内容は史書などに書かれているものとは大きな違いがありそうです。
多くの文字記録が出回るようになる春秋時代以前の話は怪しいとは思っていました。
殷の紂王の酒池肉林や周の幽王と褒似の笑わない王妃の話など、いかにも説話そのものということで、実際の歴史的事実とは大きく違うだろうと感じていました。
しかし、春秋以降にもそういった例が多いというのは意外に感じます。
中でもちょっとショックが大きかったのが「管仲は架空」と言う話です。
名宰相として史記にも「管晏列伝」が収められており、まさか説話だったとは思いませんでしたが、確かに管子という書物の内容も戦国時代以降でしかありえない事実が多く、後代に作られたものであり、、管仲自体の存在も記録として確認できないそうです。
他にも楚の荘王の逸話、臥薪嘗胆、など面白そうな話はたいていが説話。
しかもそれは戦国時代に入っても魏の恵王の五十歩百歩、蘇秦と張儀の合従連衡、呂不韋の奇貨居くべしなど、有名なものはたいていが説話として後の世の思想家たちが作り上げたものでした。
なお、歴史的事実の解説として「覇者」に関するものは興味深い内容でした。
春秋時代には「覇者」と言われる国の活躍があり、春秋五覇などと言われますが、その内容が定まらないなど歴史的には大いに問題があると言われています。
しかし、この理由としてはこういった話を組み立てていった戦国時代の思想家たちの時代にはもはや覇者というものが想像しにくくなっていたためだということです。
その頃には秦の優勢が動かしがたく、それ以外の国際情勢というものが分かりにくくなってしまった。
そのために覇者の役割、すなわち優勢な軍事力で諸国を外敵から守り、その代わりに上納金を貰うという体制が思想家たちにはよく分からなくなっていたということです。
そのため、実際には晋による覇権体制はかなり長く続いていたのですが、それを正当に評価することがあまりありません。
その晋の覇権も紀元前546年に宋の向戌が提唱し晋と楚を和平させた会議が成立し、晋楚の戦争が無くなってしまうと怪しくなります。
戦争もないのに晋への上納金だけは納めるということに諸国が反発するようになり、崩れたということです。
ちょっとこれまでの中国古代史に関する思いがかなり否定されたようで、衝撃的な内容の本でした。