岡田英弘さんの著作集というものが出版され、これまであちこちに発表されてきた文章をまとめて岡田さんの学説をとらえやすくされています。
この前、その第1巻「歴史とは何か」を読みましたが、次いで第3巻「日本とは何か」を読みました。
第1巻のときに書きましたが、岡田さんの専門分野はモンゴルから満州にかけての地域の歴史ですが、それに関連して日本の古代史についても独自の観点からの意見を発表されています。
それが1976年出版の「倭国の時代」および1977年に中公新書で出た「倭国」ですが、この著作集にはその内容は入れていないものの、関連して諸方に発表したものをまとめたということです。
「倭国」はかなり以前(おそらく出版直後)に入手して読み、大きな影響を受けました。
多くの歴史書が、邪馬台国がどこにあるとか、魏志倭人伝の記述がどうのこうのといった、枝葉末節としか見えないことを議論しているだけのように見える中、当時の倭国、朝鮮、中国(岡田さんに言わせれば”シナ”)の状況を広く捉えてその関連の中から倭国の状況を見るという独自の観点と見えました。
「倭国 東アジア世界の中で」岡田英弘著 - 爽風上々のブログ
そのようなわけで、この「岡田英弘著作集」全8巻の中でも日本を主題としているのはこの第3巻だけのようです。
その内容も、かつて読んだ「倭国」とほとんど重なるようで、あまり新味はありませんでした。
ただし、中には改めて目を開かせられた記述もあちこちに出てきます。
朝鮮半島の状況というものは、別の著者のものを読んでもいますが、日本よりさらに古い歴史を持っているように見えていました。
しかし、どうやらこれもかなり新しい時代になってからの史料が多いようで、実像は違うというのが岡田さんの見解です。
韓半島(岡田さんは”朝鮮”という名称も歴史的に古代を語るにはふさわしくないとしています)に「韓人」の国ができたというのは、さほど古い時代ではないとしています。
というのは、シナの勢力が簡単に手を届かせたのは間違いのないことであり、歴史的にも漢時代から始まる楽浪郡や真番郡というシナの直轄組織があり、多くの漢人がやってきたということから考えて、後代からいうような韓人の国があったということはなく、そればかりか韓人というもの自体まだ成立していないということです。
そして、シナの直轄組織がなんのために置かれたかと言えば、倭国に対する交易のためであったとか。
その倭国側の交易のための組織が奴国であり、その後の邪馬台国であるということです。
それは、倭国の方で自発的な集落から国家への発展があったとは言えず、漢人の商人が交易のために入り込み、倭人の首長と結びついてできたものであるそうです。
晋の陳寿が著した「三国志」も彼の置かれた状況を考えなければその内容の理解もできません。
そもそも、シナの「歴史書」というものは、それを執筆させる王朝の都合を最優先させるものであり、特に三国志はその直後、まだ関係者やその親族が権力を握っているような状況下で書かれているので、その影響を受けないわけがないということです。
特に、「魏志倭人伝」と言われている、「魏書」の中の「烏桓・鮮卑・東夷伝」を考える場合に、三国志の中で諸国のことを書いているのはこの一巻だけであることを覚えておかなければいけません。
実は、三国志には「西域伝」がありません。
シナにとってより関係が深く、意味が大きいはずの西域の諸国は無視されています。
これは、実は西域との交流に功績があったのがその当時の晋の皇帝であった司馬氏の祖の司馬懿と敵対関係にあった曹真であったということが関係しています。
司馬懿は東夷への勢力拡大に功績があったので、東夷伝というものをわざわざ書いて三国志に収め、その敵であった曹真の功績の西域との交渉は無視したということです。
日本の古代を記した「記紀」と並び称される「古事記」と「日本書紀」ですが、古事記はその成立がはるかに新しく、平安時代になってから書かれた偽書であるというのが岡田さんの説です。
古事記は太安万侶という奈良時代の学者が書いたことになっていますが、太安万侶という人は実在が確認されているものの、歴史書を書いたという記録も何も残っていません。
これは実は太安万侶の子孫の、多朝臣人長という平安時代の学者が作り上げ、先祖の業績とするために書いたものだということです。
第1巻の読後感にも書いたかもしれませんが、岡田さんの学説も今見直すと「別の解釈の方が妥当では」と思わせるものもあります。
しかし、モンゴルや満州の歴史というところから見直したというその独自の観点にはやはり相当な説得力があるようです。