文化人類学というと未開の地に暮らす種族を調査し、文明社会と対比してこのような暮らし方をしている人たちもいるということを示すといった印象がこれまでのものだったようです。
しかし、様々な社会の様式を見ていくと現代の先進国社会というものの方がおかしいといったイメージを持たされることもあり、決して「未開の社会」などと軽んじることはできないようです。
そういった姿勢から様々な地域でフィールドワークを行ってきた文化人類学者の著者が様々な面から示していきます。
文化人類学と言っても色々な切り口がありますので、本書もそれに従い進めていきます。
「文化人類学とは何か」「性とは何か」「経済と共同体」「宗教とは何か」「人新世と文化人類学」「私と旅と文化人類学」というのが各章の題名です。
シェークスピアの「ハムレット」は有名なものでそのあらすじもたいていの人が知っていることでしょう。
急死した王が息子のハムレットの前に亡霊となって現れ、妻ガートルードと弟クローディアスの共謀によって自分は殺されたと告げます。
ガートルードは王の死後1か月もたたない内に王の弟クローディアスと結婚しクローディアスが本来はハムレットがつくはずだった王位に就いてしまいます。
その後、恋人オフィーリアやその兄、クローディアスやガートルード、そしてハムレットも死んでしまうという悲劇になっています。
このハムレットの人間関係というものを、ナイジェリアのティヴという種族の人たちはどう見るか。
ティヴの社会では子はすべて父の親族集団に属するという父系親族組織があり、また未亡人は死んだ夫の弟と再婚するという慣習があります。
また狙った相手を病気にしたり殺したりすることができる呪術というものを信じています。
こういったティヴの人たちから「ハムレット」を見ると、先王の死後その弟が王の妻をめとって王位に就くのは当然のことです。
また先王の亡霊は呪術師が送ってくるもので、オフィーリアが溺死するのも彼女の兄の呪術によるものと解釈されます。
結局、ハムレットを「悲劇」と考える西欧社会とは違い、「呪術に惑わされて自分にとっては父ともいえる現在の王に対して反抗し殺そうとしたハムレットがその若さゆえに身を亡ぼすという、教訓的な物語」だと考えられるそうです。
マレーシアのサラワクに住む、ブナンという人々は狩猟採集社会を営んでいます。
政府が強力に農耕社会化を進めているのですが、まだ半定住の生活をしています。
彼らの社会ではすべてのものを周囲に分け与えることが美徳とされています。
狩りで得たり、人から貰ったりしたものは何でも公平に分かち合います。
これは生来のものではなく、やはり子供は一人で独占したがるのですが、親が厳しくしつけて周囲に分け与えさせるような教育をしています。
個人的な所有欲というものを捨て去るように仕向ける社会なのです。
そして、ブナンには「ありがとう」という言葉がありません。
何を貰っても「ありがとう」とは言わず、「ジアン・クネップ」つまり「良い心がけ」という言葉で返すのみです。
ブナンは平等であるということに強いこだわりを持っています。
狩猟の獲物を分ける際にも、良い部位を自分でもらうということもなく、全てを平等ということを目指します。
これは物質的なものばかりでなく、精神的なものも分配します。
ブナンで一年間過ごした著者が離れる時が近くなると、淋しくなる、悲しいと皆が言うようになりました。そういった感情も共有しようとしています。
日本ではなんでも個人所有です。物品だけでなく、才能や知識も個人所有し、それによって職業についたりします。
個人所有というものを徹底的に排除しようとするブナンの社会とは正反対と言えるのですが、どちらが優れているとかどちらが進歩しているとか言えないもののようです。
文化人類学で広く認められている概念が「通過儀礼」というものです。
大人になるにあたって、時には非常に危険な行為をするといった風習が多くの種族で見られます。
これは子供の状態から「分離」され、儀礼の中で様々な行為を受ける「移行期」を経て、大人の社会に「統合」されるということです。
実はこれは通過儀礼の一つにすぎず、もう一つの通過儀礼は「葬送儀礼」です。
これも生の世界から「分離」され、移行期を経て死後の世界へ「統合」されるのです。
ボルネオの先住民ブラワンは、遺体処理を二回行いますが、こういった行為も葬送儀礼として広く行われていることのようです。
人間の社会というものはどうあるべきか。
おそらく「あるべき」とも言えないのでしょう。
しかし「ちょっと困った」社会も多いようで、特に現代の先進国社会というのは「かなり困った」社会になっているのかもしれません。