遊牧民といえば大草原で羊を追っている風景を思うと共に、かつてはユーラシア大陸を席巻したモンゴルの旋風が思い起こされます。
しかし遊牧という生活様式がいつ頃から起こったのか、そういった歴史については遺跡もほとんど無く、自らが記録した史料も無いということで分かっていることはあまり無いようです。
そのような「遊牧の人類史」について、かつて若い頃にトルコの遊牧民の調査を始めることで人類学研究をスタートさせた著者が、多くの調査結果と想像力を駆使して語り掛けています。
著者は京都大学人文科学研究所の助手として採用された後すぐにトルコ調査への参加を申し出ました。
当時の教授は梅棹忠夫、その前任教授が今西錦司という研究室でした。
そこで調査したのが首都アンカラから400㎞ほど離れたところで遊牧生活をしていたユルックという民族でした。
現在の遊牧民の生活というものに触れ、さらに遊牧に関する研究を深めて行くことになります。
本書は遊牧の詳細に触れる前に「現生人類史」の中での遊牧の位置というところから語り始めます。
現生人類というものが誕生したのが20万年ほど前のアフリカですが、その後長く彼らは狩猟採集の生活を送っていました。
しかし出アフリカという旅立ちをし、西アジアから世界中へと広がっていくことになります。
その過程のいずれかの時に農耕を開始することになるのですが、実はそれとほとんど変わらない時期に遊牧というものも始まっていたと考えられます。
狩猟の獲物としての動物たちを殺さずに共生していくためには多くの知識と技術が必要であったはずであり、それを可能にしたのは長年の知識の集積が必要で、やはりそれほど昔にさかのぼることはできないようです。
遊牧民の遊牧対象とする動物はほぼ5種類に限られます。
ヤギ・ヒツジ・ウシ・ウマ・ラクダで、これらを五畜と呼びます。
もっとも早く家畜化されたのがヤギ・ヒツジで約紀元前1万年、ついでウシが紀元前8000年、ウマが紀元前6000年、ヒトコブラクダが紀元前4000年と言われています。
ヤギ・ヒツジは制御しやすいということで早くから遊牧の対象となりました。
ウシは非常に乳量が多いという利点はあるものの、野生種のウシは体も大きく狂暴だったため時期が遅れました。
ウマは乳量が少ないために酪農向けの利用がしにくかったものの、乗用や輸送のために飼いならすことが進みました。
ラクダはウマと比べれば乳量が多いのですが、それ以上に乾燥地帯での強さが利点となりました。
これらの動物のオスの去勢ということがかなり早い時期から導入されます。
これにより動物群の制御が格段にやりやすくなります。
なお、遊牧の業務として群れの管理や搾乳のほとんどは遊牧民のいずれでも女性や子供の役割が大きいのですが、去勢だけは男性が担当するそうです。
遊牧の起源は農耕の起源と近い時期だったと考えられています。
そしてその舞台もどちらも西アジアではなかったかと言われます。
パレスチナやシリアのナトゥーフ文化層と言われる遺跡からは農耕の最初の頃の穀粒などが見つかっているのですが、これが1万4500年ほど前のものです。
これが徐々に都市文化として発達していきメソポタミア文明につながるのですが、その都市化の引き金になったのが、どうやら遊牧民の侵入を阻止するための城壁の建設であったようです。
つまり、それ以前に遊牧という社会が成立していたとみるべきでしょう。
このような農耕社会と遊牧社会のせめぎ合いは中国古代文明にも多くの痕跡が残されています。
中原の中国文明に対し繰り返し侵入を行った遊牧民については歴史にも記録されています。
しかしこのような中央アジアを中心にした遊牧民の社会は近代国家が成立してくるにしたがって大きく制限されるようになってしまいました。
近代社会では土地の私有化ということが必須のものとなります。
しかし遊牧社会は土地の私有化とはまったく相容れないものです。
そのため各国で遊牧民に対する圧政としての政策が実施されます。
早くも1934年にはトルコ共和国が遊牧民の定住化法を制定しました。
さらに旧ソ連でも中央アジアの遊牧地帯に集団農場コルホーズの建設を進め、遊牧民も強制的に定住化させることとなります。
現在ではわずかに残る遊牧民も利用できる放牧地が減少し、大規模なダム建設などで移動経路がふさがれるなど、遊牧と言うこと自体継承することが難しくなっています。
しかし、土地の私有化ということが際限なく広がりその弊害も強くなっている中、土地所有権などはまったく主張することのない遊牧社会の知恵というものは学ぶべきところが多いということです。
遊牧社会というものが農耕社会と並び立つ存在であり、その関わりが人類社会の大きな要素であったということは、なかなか気づきにくいものかもしれません。