〈正義〉の生物学などと、ちょっと意味がわからないような題名だったのですが、実はこれがこの本の内容を正確に描写しているものでした。
しかしそれが分かるのが最後まで読んでからということでした。
扱われている内容は本書副題を見ればすぐに理解できます。
「トキやパンダを絶滅から守るべきか」
地球の歴史の中で5回の大きな生物種の絶滅が起きましたが、現代はそれを上回るかもしれないという「第6の大量絶滅期」であると言われています。
身近な話題としても、絶滅危惧種となったパンダやトキを人工繁殖などで増やそうとする努力がされています。
しかし、本当に「トキやパンダを絶滅から守るべきなのか」
その初回に、学生にこの問題をぶつけています。
「トキやパンダを絶滅から守るべきなのか、それとも特別なことをする必要はない(絶滅はしかたない)のか、どちらかを理由と共に述べよ」
学生たちがこの質問に答えるのですが、その理由と言うものがこれまで世界中で続けれ来られた「生物種保全」の論争をそのままたどるようなものになっています。
守るべき、「生態系バランスを保つ必要があるから」
これはかなり多い回答例のようです。しかし、「バランスが崩れると何が悪いの」と重ねて尋ねると良くわからなくなるようです。
守るべき、「生き物がいないと人間の生活が不便になるから」
”生き物の恵み”が必要という考え方も広く行き渡っています。
しかし、「人間の役に立たない生き物」を守る理由が無くなってしまいます。
守る必要なし、「生物種が絶滅するということはこれまでに幾度となく繰り返されてきた」
しかし、これまでの種の絶滅は自然の摂理であるとしても、今回の大量絶滅はどうやら人間にほとんどの責任がありそうです。
しかも絶滅の速度が非常に速い。これも人間の責任のようです。
人類は約5万年前にアフリカを出て世界中に広がりました。
人類の行き着いた地域ではその直後にメガファウナと呼ばれる大型の獣(体重44㎏以上)が絶滅しています。
食用のために取りつくしたためでした。
その後、農耕というものを始めた人類はそのために生物の住処だった自然環境を耕地に作り変えてしまいました。
それで住む場所がなくなった生物が絶滅していきました。
守る必要なし、「弱いものが淘汰され、強いものが生き残る、弱肉強食の原理は自然の摂理だ」
”弱肉強食”という言葉から想像できる、弱いものを食べて強いものが生き残るということは、生物界では食物連鎖と言われていますが、これは強いものが弱いものを滅ぼしてしまうということではありません。
食べたとしてもそれはごく一部であり、取り尽くしてしまえば自分が食糧不足で滅びてしまいます。
そもそも、「強いものが生き残る」という生存競争は「同種」の生物の間で起きるとされています。
別種の生物との間には成り立つとは言えません。
さらに、弱肉強食の生存競争ということが言われたことにより、社会ダーウィニズムという風潮がはびこり、社会の破壊にまで至りましたが、これも誤解によるものでした。
守るべき、「生物多様性を次世代に残すことは現在世代の義務だ」
世代間倫理についても触れられています。
ただし、これについては倫理学の方でも論理的整備が十分にはされていないようです。
自分の子孫のためになるというだけでは、成り立つことではないようです。
そもそも、「現代の全人類」は皆「血縁者」だとも言えるのですが、その間で激しい闘争を繰り返しているのに、未来の子孫だからといってためになることをするというのは当然の事とは言えないでしょう。
これらの考え方は「人間本位」で考えることから「人間中心主義」と言われます。
しかし、生態系全体を考えなければ生命の多様性を守るということには行き着きません。
これを「人間非中心主義」と呼び、「生態系中心主義」と「生命中心主義」の2つの考え方があります。
アメリカのアルド・レオポルドが考え付いたのが「生態系中心主義」でした。
人間の命よりも生態系のバランスの方が優先する。もしも人類の人口が増えすぎたのが生態系に悪いのなら人類を減らすことが正しいということになります。
さらにジョン・ベアード・キャリコットはさらに整理し、生態系の維持に資することが倫理的価値を測る究極の尺度だとしました。
ただし、「なぜそこまで生態系というものが大切なのか」ということ自体明確に説明されておらず、釈然としません。
それに対し、「生態系を守るためには一部の命を犠牲にしても良い」ということは無いというのが「生命中心主義」の考え方です。
ただし、ここでは人間の命も他の生物の命も同様に重要なのかという疑問があります。
現在では人は当たり前のようにヒトとヒト以外の動物を分けて考えます。
そしてヒト以外の動物を食用やその他の用途のために使うということも広く行われています。
実はかつてはヒトの中でも差別がありました。
奴隷や異人種などを差別し酷使することは当然と思われていました。
それが徐々にヒト全体を同一視することが広がりつつありますがまだ不十分です。
これを、「他の動物」全体までに広げていくのか。
しかし、種と種の差と言うものはそれほどはっきりしたものではありません。
ヒトとチンパンジーは確かにまったく別の生物種と見えますが、実はその間に数多く存在した中間種がすべて消えたために大きな違いと見えるだけで、その違いは連続的なものでしかありません。
ネアンデルタール人とホモサイエンスは別種とされてきましたが、そのDNAの分析ができるようになると、現代人の中にもネアンデルタール人由来の遺伝子が残っていることが分かってきました。
地球上のすべての生物は連続的に変化したもので、ヒトだけが特別な種だということはありません。
「人間中心主義」というのは、どうしても「人間にとって損か得か」という面から見るものでした。
しかし、判断基準にはさらに重要なものがあります。
「正しいかどうか」です。
正義かどうかということは、個人が正しいと思って行うことであり、他人から見ても正しいと思えることです。
このような正義は社会によって違い、文化によって作られてきたと考えられます。
しかし、そのような下位のルールとは違う人類共通のルールがあります。
「人を殺してはいけない」「人のものを盗ってはいけない」「誰もが平等に扱われなければならない」といったものです。
こういったルールはごく幼い子供にも教えられる前に存在していることが確かめられています。
このような生得的なものを「正義」とする。
エドワード・ウィルソンという生物学者が、社会生物学というものを提唱し論争を巻き起こしました。
正義と言うものも進化により獲得した人間の能力なのではないか。
そして、人間には他の生物に関心を持つという能力があります。
これをバイオフィリア仮説というのですが、これが生物多様性を求める原因となっているというのです。
つまり、最初の問題の「絶滅しそうな種を守るべきか」の答えとしては、
守るべき、「ヒトか、ヒト以外であるかを分け隔てることなく、すべての命を尊重すべきだから」ということです。
もちろん、ここには現在の人間生活が多くの生物の命を奪っているという矛盾に突き当たりますが、それは最小限に抑えるということで納得する必要があります。
これが「正義の生物学」だということです。
生物学というよりは倫理学の問題のようでした。
しかし考えさせられます。