爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「城郭考古学の冒険」千田嘉博著

現在は城郭ファンとでも言うべき人々が増え、あちこちの城跡に多くの人が押し寄せるようになっています。

しかし千田さん(現在60歳)が大学生の頃に「城郭を考古学的に研究したい」と考えた頃はそのような研究者は居らず、周囲からも大反対をされたそうです。

考古学というものは文字の無かった時代を研究するというイメージが強かったためで、中世以降の時代については豊富な文献で研究すれば良いといった観念が強かったのでしょう。

ところが中世や近世の城郭についての文献資料といってもそれだけですべてを知ることなどできません。

そもそも戦国以前の城郭については文献もほとんど残っておらず、あっても不正確であることも多いため、真実の姿とはかなり違うことも多くなっています。

文字の史料があったとしてもそれと実際の現場で得られる考古学的史料を重ね合わせることでさらに当時の真実が見えてくると言えそうです。

 

そのような観点から、本書ではまず「考古学的」に城を探検しそこから歴史を読む方法について紹介しています。

城の「鑑賞術」として、櫓や門、石垣、堀を見ていき、栃木県唐沢山城を例に実践していきます。

 

さらに天下統一の時代を城から見ていくとして、織田信長明智光秀松永久秀豊臣秀吉徳川家康を次々と見ていきますが、これまでの文字の史料から得られた印象とはかなり違うものが見えてきます。

 

さらに比較城郭考古学で日本と世界の城を比較していくということも紹介されています。

日本の城というのは世界の中でも独自の進化を遂げたと言われていますが、それでも類似した機構を持つ場合も多いのは、城攻めの戦争への対応ということから自然に似てくるものなのでしょう。

城の出入り口の構造として、最初は「平入」という単純なものだったのですが、やがて「外桝形」という複雑なものとなっていきます。

イギリスで紀元前7世紀から1世紀にかけての城郭都市ヒルフォートでも最初は平入だったのですが、カエサルの侵攻を受ける頃には外桝形に進化していきます。

日本の場合も信長秀吉の織豊系城郭と言われるものが確立したころには外桝形の出入り口になってきました。

これまでの城郭構造の比較では日本と世界の違いばかりを強調してきたのですが、類似する構造を見ることも必要な事です。

 

安土城は残された文献が少なくあまりはっきりとしたことが知られていません。

1989年からの発掘調査で安土城天主台の東側の礎石の上に焼けた柱が炭化して残っていました。

この建物の意味は長らく不明のままでしたが、著者は天主と接合しているように見える懸け造り建物だと推測しています。

そしてこれがフランドル人のウィンゲが1592年にバチカン宮殿に残されていた狩野永徳安土城下町図屏風を模写したスケッチが発見されそれと類似して見えるそうです。

 

大阪城は現在のものは江戸時代になって作られたもので、豊臣の大坂城とは違うということは知られていると思います。

その豊臣大坂城の様子というものはほとんど記録にも残っていませんが、さらにちょうど徳川大坂城の真下になるために発掘調査も簡単ではありません。

徳川大坂城特別史跡に指定されているために、露出している石垣や堀だけでなく地下遺構も含めて厳格に守る必要があり、その下に埋められている豊臣大坂城を掘り出して整備するという訳にも行きません。

したがって、江戸時代には空き地になっていたところだけを発掘調査するしかないようです。

 

著者の千田さんは現在は奈良大学教授で奈良に在住しています。

奈良は歴史的な遺物が多く、よく管理され保存されているというのが一般認識でしょうが、実は奈良時代以前の遺跡は保存されているもののそれ以降の遺跡はほとんど放っておかれています。

飛鳥の地は石舞台古墳高松塚古墳などがありますが、そのすぐそばに中世の祝戸城の城跡があることはほとんど知られていません。

それどころか祝戸城があったことを示す解説板の一つもないばかりか、国営飛鳥歴史公園の園路が祝戸城を削って貫通し、城の遺構である畝状空堀跡を大きく毀損してしまいました。

奈良にとって価値がある遺跡は古代のものだけであり、中世の遺跡は価値が無いと言っているようなものです。

他にも中世の遺跡で重要なものは数々あるのですが、そちらには全く意識が向かっていないようです。

「歴史を大切にする奈良」のイメージにはかなり間違いがありそうです。