(まえがき)「かめきちの目」のkame710さんには本ブログもたびたびご訪問頂き、私の読書記録などにも目を通していただいて「私も読んでみたくなりました」といったお言葉を頂くことが多いのですが、今度はびっくりしました。
ちょうど私が読んでいたこの本の書評が「かめきちの目」に掲載されているではないですか。
kame710.hatenablog.comまあだいたい読書傾向が似ている方でしたので不思議は無いのですが、それにしても同時に読んでいたとは。
ただし、「読書感想文」はkame710さんと私ではかなり差が出てくると思います。
なにしろ人生経験が豊富な方のようですので、私のような世間の荒波にはさほどさらされないまま年を取っただけの者とは比べ物にならないほどの深い読みができるのでしょう。
とはいえ、まああまり考えすぎても仕方ないので、私は私の感じたまま書いていきましょう。
(本文)
高橋源一郎さんの「ぼくらの○○なんだぜ」という題名の本はこれまでにも読んだことがありますが、その名付けの軽さの割に内容はかなり重いものもあるかと思います。
この本もまさにその通りの印象でした。
戦争をテーマにして考える本というのは無数と言ってよいほどありますが、そのアプローチは様々です。
高橋さんは1951年生まれと私より少し年上の方ですので、太平洋戦争の戦争経験はないのですが、幼い頃にはまだまだ戦争の記憶を感じさせるものが残っていました。
また周囲の大人は戦争のことをあまり話そうとはしないものの、端々にそれを感じさせる言葉もあったようです。
読み物の中にも実体験に基づく戦争の印象が語られるものがあちこちに見られました。
この本ではそういった、文芸作品と戦争の関わりという面から「自分たちの戦争」というものを捉えていきます。
まずは「歴史教科書」と戦争から。
そして「詩作」について、国策に沿った詩を作った大詩人たちとそれに対比して市井の詩人たちのもの。
さらに小説の中に描かれた戦争。
最後には「戦争小説家」太宰治について。
戦前の日本の歴史教科書は歴史的史実などは放っておいて戦争遂行のための道具となり、天皇礼賛一色となりました。
戦後は一転して戦争というものからできる限り目を逸らそうとしているようです。
中国や韓国の歴史教科書では日本帝国主義の告発に終始しているといったことはよく言われます。
それではヨーロッパの教科書はどうなのか。
ドイツの教科書ではナチスドイツの行為について詳述されています。
フランスは第二次世界大戦では複雑な立場に立たされました。
ドイツに占領されたフランスにはヴィシー政権が作られ、ナチスに協力します。
ナチスに対するレジスタンスも行なわれ、連合国の勝利となった後はレジスタンスがフランスの本流であったかのように言われます。
しかしヴィシー政権を無視するわけにもいかず、長い時間をかけてその反省を教科書に書き込むこととなります。
日中戦争から太平洋戦争に至る期間、日本の芸術界は戦争に協力させられました。
それは詩人たちも同様であり、国策に沿った詩しか出版できない状態となりました。
そのような中に1944年出版の日本文学報国会編、「詩集大東亜」というものがあります。
参加した詩人たちは189人、とりわけ、高村光太郎は序文も書き指導的な立場だったようです。
他にも佐藤春夫、西条八十、土井晩翠、日夏耿之介、堀口大学、室生犀星といった大詩人たちが名を連ねています。
しかしその作った詩は高橋さん曰く「大きなことば」つまり世間に上から覆いかぶさったような高圧的な言葉の羅列に過ぎないようです。
北園克衛、堀口大学といった人の作品も紹介されていますが、どちらも以前はこのような詩を書く人たちではなかった。
それが戦争というものに取り込まれ見るも無残な詩を作ってしまった。
それに対し、政府や軍の監視の目をかいくぐって出版された反戦とまでは行かなくとも人々の実際の気持ちを込めた詩集もありました。
昭和17年刊の「野戦詩集」というもので、山本和夫さんという方が編者となっています。
山本さんをはじめ6人の方々は中国大陸に出征して兵士として戦うかたわら、隠れて詩を作り日本に持ち帰りました。
それらを集め、できるだけ表現をぼかして何とか官憲の目をすり抜けて出版されたそうです。
その中には中国の戦地での出来事が語られており壮絶な状態であったことが分かります。
こういった表現を「小さなことば」と表現し、高圧的で強権的な「大きなことば」と対比させています。
戦争小説というものも数多く書かれています。
実体験に基づくものも多いのですが、どのような戦争体験だったかということは人によって大差があり、そのため小説の色合いにも大きな違いができてしまいます。
野坂昭如「火垂るの墓」井伏鱒二「黒い雨」竹山道雄「ビルマの竪琴」城山三郎「落日燃ゆ」など様々ですが、高橋さんが戦争小説でも一番のものとしたのが大岡昇平の「野火」でした。
太平洋戦争末期のフィリピンで日本軍は壊滅し圧倒的な勢力の米軍から逃げ惑う兵士を描いたものですが、食糧がまったく尽きたために戦死した兵士の人肉を食べると言った描写もあります。
林芙美子は軍隊への協力の姿勢が強く、最前線の部隊に同行して従軍記を書き、「戦線」という本も書きました。
しかしこれも国策に迎合して国におもねったものとは考えていません。
林芙美子はその時には「本気」だった。
兵士たちの感覚と全く同化し、中国兵や民衆の死には全く心を動かされることのない心理状態になってしまいました。
その後、この「戦線」はお蔵入りとされたそうですが、それについて林芙美子は語ることはありませんでした。
この本では詩人や小説家などの戦争との関わりということについて描かれていましたが、当時のすべての日本人はその立場なりに戦争と向き合っていたはずです。
私などはやはり技術者、科学者といった人たちに共感しますが、彼らもそれぞれの立場から戦争に関わっていました。
そして「現在では関係のない話」とは言えないものなのかもしれません。
(10月18日追記)
「カメキチの目」では本書の書評も掲載されました。
2023.10.17 『ぼくらの戦争なんだぜ』(後) - カメキチの目
私のものとの違いはどうやらkame710さんご自身の考えや体験と強く結びつけて本の内容を紹介すると言った所にあるように見えます。
その点私の方は本の範囲からあまり出ることなしにあっさりと書いてしまったのかもしれません。
別に常に冷静な姿勢を維持しているという訳でもなく、しょっちゅうカッカしていることも多い私ですが、なぜそういうことになるのか、自分でもよく分からないところです。