爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「楽毅1~4」宮城谷昌光著

中国古代の歴史上の人物では秦末漢初の時代と三国志の時代のものが日本では特に人気が高いようです。

本書主人公の楽毅はそれほど有名な方ではないのではないでしょうか。

 

しかし中国ではかなり有名な人物であり、漢の高祖劉邦が尊敬する人物として挙げていたとか、三国の諸葛孔明が敬愛していたといった話が伝わっています。

 

楽毅については司馬遷史記にも列伝として収められていますが、その記述は簡単なもので略歴も飛び飛びになっています。

 

本書ではおそらく宮城谷さんが他の書物も参考にしながら楽毅の人生を再構成していき、さらに文学的な修辞も付け加えていったのでしょう。

 

楽毅で最も有名なことは、燕の将軍として燕王の意を受けて仇の斉の国を打ち破り、その大半を手中に収めたということでしょう。

しかし本書ではそれは最後部のわずかな部分のみであり、多くは楽毅の青年期壮年期の活躍を描いています。

 

楽毅は中国北方の小国、中山の大臣の嫡子として生まれました。

当時は斉の国に加えて隣国の趙も強大化し、特に趙は北方の蛮族を服従させようと盛んに征討作戦を繰り広げていました。

そんな事態になっても時の中山王はそれに対する措置すら取らず安閑とするばかりの暗愚な王でした。

なお、それ以前は各国の支配者は「公」と自称していたのですが、その頃から大国を中心に「王」を称えるようになり、中山も身の程知らずにそれに同調したために他国からも反発を受けていました。

楽毅は青年の頃に当時の中山から見れば敵国の斉に向かい、身分を隠して孫子の兵法を伝える兵学者に学びました。それがその後も彼の生涯を支えたとしています。

またその頃ただの学生に過ぎない楽毅が当時の斉の宰相であった孟嘗君田文に面会し、その後も深い影響を受けるということになります。

しかし当時の趙の武霊王の中山攻略の意志は強く、何年もかけて滅亡に向かいます。

亡国の後、楽毅は市井に止まるのですが、その当時国の興隆を賭けて国体の強化を目指していたのが燕の昭王でした。

燕はかつて国内の反乱が起き、それに乗じて攻め込んできた斉の軍隊によって蹂躙され当時の国王が殺され、その後も属国扱いをされてきました。

それに報いようとしたのが昭王でした。

しかし中国でも北辺の燕には人材が居ません。

その時昭王が賓客の郭隗に人材招聘の術を聞いた時に郭隗が答えたのが今も残る「まず隗より始めよ」という言葉です。

これは、人材としては超一流とは言えない程度の郭隗を高額の報酬で迎えれば、それより優れていると自負する人材が押し寄せるだろうという意味です。

この報酬につられたということではないのですが、楽毅も燕王に仕えて斉を打つ目的に向かいました。

 

その後の経緯は史書にも描かれているところですので略しますが、昭王のために斉をほぼ支配下とした楽毅ですが、昭王が亡くなりその息子が即位するとかねてから仲の悪かったその王のために将軍を解任され、さらに処刑される危険性も出てきます。

そのために楽毅は逃れて趙の国に仕えることとなりました。

楽毅に替えて斉を討伐する将軍としたものは全く無能であり、斉の残党であった田単が有名な牛攻めであっさりと破り、斉は元の通りに田氏の王に戻ることとなりました。

 

やはり宮城谷さんの思惑通り、前半の趙の武霊王の中山攻めとそれに対抗した楽毅の籠城戦の描写が面白くなっています。

どこまで史実に近いのかということは分かりませんが、ワクワクさせられるものでした。