中国の前漢の時代の司馬遷は、「史記」と呼ばれる歴史書を中国で初めて執筆し、中国の歴史の父とも言える人です。
史記の中には、司馬遷が各地を旅し、そこで様々な逸話を聞いたという表現も見られます。
しかし、それが事実なのか、あるいは既に書かれていた資料を参照して書いたのか、さらに創作の部分が多いのか、そういった細部は意外に検討されておらず、よく分かっていないことも多いようです。
本書著者の藤田さんは、中国古代史が専門の歴史研究者ですが、たびたび中国に赴き、司馬遷が旅したというルートもたどるということをしています。
すると、書かれていても良いことが記載されていないと言った疑問点も分かってきたということです。
司馬遷は生涯で少なくとも7回の旅行をしています。
その旅行については、清末の歴史学者王国維によって考察され、その発表文書はその後の司馬遷研究の基礎ともなりました。
ただし、王はこの旅行を全部で6回とし、最初の司馬遷20歳の時の旅行は仕官する前の学習のためだと論じました。
また、司馬遷の生年を紀元前145年であるとしました。
本書では王の主張とは異なり、司馬遷は紀元前135年生まれ、旅行は全部で7回、第1回の旅行は完全な私的旅行ではなく、仕官前ではあっても国の博士などの旅行の際の随行者として同行したのではないかという見解です。
それは当時の社会情勢から得られる結論で、前145年では司馬遷20歳の時点ではまだ社会が混乱しており各地で行事の学習などはできなかったろうということです。
また、商用の旅行というものはあったにせよ、他に個人が私的旅行をするという環境ではなかったということから、何らかの公的な旅行への随行が考えられるそうです。
こういった見解は、史記の中に孟嘗君の封邑であった薛の地で土地の若者に「暴桀のふるまい」をされるという記述があることからも支持されます。
完全な公的旅行の一団には、いくら暴桀の徒であっても手出しはできないでしょうが、国の官吏とはいえ博士の調査旅行程度ならそういった隙もあったのかもしれません。
史記にも貨殖列伝という、地理や風俗、産業を描いた部分があります。
中国各地の情報を書いているのですが、それがどの地域も同じように書かれているということです。
これを司馬遷が旅行で訪れた地域と見比べてみると、必ずしも訪れたところの描写が細かいということはありません。
また訪れていない、燕や南楚の地域の記述も他の地方と同じように詳しいものです。
どうやら、こういった情報はそれまでに漢王朝が収集しまとめた資料があったのではと推測できます。
司馬遷も史記を書く上でこの資料を参考にして書いていたと考えられます。
しかし旅行での印象が史記の記述に影響が無かったということではなく、文章の中での扱いが重いものはやはり旅行で深く感じたものが多く、旅行していない地域の人物についてはほとんど書いていないということも現れています。
秦本紀においては、戦国時代の昭襄王の評価が高く二世皇帝の不徳を強調しましたが、ここは武帝の巡行に司馬遷が同行したルートとほぼ重なります。
一方、河渠書において、歴史的には重要な西門豹の漳水渠についてはほとんど簡略な記述しかしていませんが、ここには訪れていないことが判っています。
現代から見れば史記に触れてある場所、無い場所の違いというものも分かりますが、当時としては及ぶ限りの範囲で記述を広げたということでしょうか。
史記は私も若い頃から何度も読みましたが、その読み方はうわべだけだったかと思い知らされる内容でした。