登山家と言われる野口健さんですが、どうも登山以外での活動が多いように感じます。
ヒマラヤでのゴミ集めや災害被災地の支援など。
この本は野口さんの秘書を長年務めたいたという小林さんが、野口さんと完全に別れたいという思いを完結させるためにあえて書いたというものです。
というのも、近くから見ても欠点ばかりの野口さんですが、その悪魔的とも言える人間的魅力は怖ろしいばかりのもので、これまでも何度も野口さんの元を離れようとしたものの、その都度、「自分がそばにいなければこの人はどうなるか」という思いに囚われてまた戻ってしまうということを繰り返してきたそうです。
それを封じるためにも野口さんの人生、そして自分との関わりをすべてさらけ出してしまおうと考えて本にしたということです。
おそらく、小林さんは野口さんのこれまでの人生からその事業のやり方等々熟知しているのでしょうが、それを隠すところなくあきらかにしてしまったということでしょうが、これを本人が了承しているとも思えません。
すでに名誉棄損で訴訟が起こされているのではと思いましたが、出版より1年ちょっと経っているもののまだそういったことにはなっていないようです。
野口さんも事実関係では争えないとあきらめているのでしょうか。
登山家と言われる野口健さんですが、ある登山ジャーナリストが野口さんを評して「登山家としては3.5流」と言ったそうです。
それに対してもあえて反論はされていません。
山登りの実績として、「六大陸最高峰の全登頂を最年少で行なった」というものがありますが、それ以外はほとんどありません。
しかもその登頂も自らパーティーを組織して登ったというものではなく、半ば商業的なツアーに加わって山頂まで連れていってもらったというもののようです。
というのも、その山登りの動機というのが非常に激しいコンプレックスの解消のためということだったようです。
彼は外交官であった父親が赴任先で知り合った現地の女性と結婚して生まれた子で、母親は四か国の血が混ざりあっているという人で、計五か国の混血となりました。
そのため、日本の学校では激しいイジメにあったそうです。
その後、父親の転勤でイギリスの寄宿学校に入りますが、そこでは低学力で問題視されました。
それを見返そうと始めたのが山登りだったそうです。
ただし、そういった登山への姿勢はともかく、その事業化ということには素晴らしい才能があったようで、ヒマラヤ登頂を残しながらもそれを目指すということをネタに亜細亜大学の一芸入学枠を勝ち取ります。
さらに、登山実施には多額の費用がかかるものの、そのスポンサー獲得にも才能を発揮します。
ヒマラヤ登頂には2度失敗したものの、3度目に何とか山頂に立ち、世界最年少登頂記録を獲得します。
その後は登山にこだわることなく、受けの良い活動をあれこれとやっていくことになります。
ネパール政府に多額の入山料を収めながらヒマラヤには登らずにそこに残されたゴミを集めるという活動をするというのも、並みの登山家たちでは考えつかないことでした。
そこから「環境」というイメージを獲得し、さらに講演会依頼を増やしていきます。
こういった活動を途中から共に行っていったのが小林さんで、事務所を立ち上げて秘書として支える活動をしていきます。
小林さんも作家を目指していたものの上手く行かずに定職がなかったところを助けられたという思いもあり、野口さんにのめり込んでいくことになります。
といった内容がつづられていくのですが、やはりあまり良い読後感というものはありません。
まあ隠しても隠しきれるものでもないようで、野口さんについては悪い評判で炎上ということもあったようですが、それも当然かと思えるような内情だったということでしょう。