爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「原発事故と『食』 市場・コミュニケーション・差別」五十嵐泰正著

2011年の福島原発事故では放射能汚染が起きました。

その当時から食品の汚染をどう考えるかということについては、多くの意見が飛び交いましたが、現在でもまだ何か発言するとネット炎上につながるといった事態が続いています。

著者は社会科学者ですが、在住する千葉県柏市で地元野菜を中心としたまちづくりに関わっていました。

それが、事故後に一時的に放射能ホットスポットができたということで、汚染と食品の関係についての様々な人々の争いの只中に入ってしまいました。

そこでの経験も踏まえ、福島の農業者などの事故後の苦悩と消費者との感覚の違い、コミュニケーションの考え違いなど、「食」をめぐる諸問題を考えています。

 

あくまでも「科学的知見から間違った思いを抱いている人を指導する」などということではありません。

著者はたとえ科学的には意味がない程度の放射能忌避も、自分で避けたいという人を否定はしません。

自分自身(および子供や家族)に食べさせたくないから福島県産品を買わないというのは自由です。

ただし、その人が福島県の食品生産者を非難したりする行動をする場合は別です。

それが、有名人(芸能人・スポーツマンを含む)である場合はなおさらです。

それは「福島県に対するいわれのない差別」になることになります。

それをする場合には多くの人が納得するような科学的議論をしなければならないということでしょう。

 

福島原発事故後の放射能汚染が広がった時期にはその対応と言うのは多くの人々を混乱に陥れました。

しかし、それがさらに混迷を深めたのは、多くの問題が絡み合っているにも関わらず対応をまとめなければならないということになったからです。

「科学的なリスク判断」

原発事故の責任追及」

「一次産業を含めた復興」

「エネルギー政策」

これらのどれかを強調すると、どれかが言えなくなる、そういった関係になっていました。

これらの課題が切り分けられないまま議論は混乱していきました。

放射能の影響を過剰に煽る怪しげな情報は拡散していき、それが福島県の農産物などの流通を非難するような主張になっていきました。

マスメディアですら、国や東電の責任追及に熱心で行政の放射能検査体制に懐疑的な立場を取りました。

本来なら科学的なリスク判断をすべき食品汚染や健康影響の議論までこういった立場の違いで分断され激しい批判をし合っていました。

 

実は、今でもこういった議論は終結はしていないようです。

放射能リスクにこだわる人は減ったもののまだ確実に存在しますが、その人々が何か発言すると福島復興に力を入れている人から猛反発を受けます。

逆に現状の汚染状況を科学的に解説しようとすると反発をする人も居ます。

 

福島県の食品は今でも確実に「差別」を受けています。

消費者に「福島県産品を避けますか」と問えば、多くの人は「気にしない」と答えるのですが、実際にはスーパーで手に取った時に別の産地のものに替えたり、商店が仕入れの時に選別したりと言った行動をしており、出荷量が以前の量に戻っていなかったり、価格が低く抑えられているということになっています。

もともと、福島県の農業生産は、それほど「名産品」は無く、各種農産物を数多く生産していました。

そのため、あえて福島県産でなくても別の産地でも良いというものが多かったようです。

特に「コメ」の場合にその傾向が強く、いまでも県産米の全数放射線検査ということを続けておりすべてが規制値をはるかに下回ることが確認されているにも関わらず、取引価格は低迷しています。

はじめから他産地との競争をあきらめて外食産業や加工用の低価格米に流されているようです。

 

福島原発事故というものも、すでに9年が経過し事故そのものの記憶は徐々に「風化」していきます。

しかし、この「風化」と言う現象にも違いがあります。

事故の記憶がすべて薄れ、リスクも気にならなくなり事故前と変わらない状況になることを「良い風化」と言えると思います。

しかし、現状の福島県産品についての風化は「事故の記憶は薄れたが、品物に対しての悪いイメージだけは残っている」という「悪い風化」と言わざるを得ません。

 

原発事故の直後には、徐々に放射能汚染の程度が判明し落ち着いてくるにつれ、それが危険かどうかの状況について発言する科学者が増えてきました。

しかし、彼らの言葉にはその状況に危険を感じる一般人からの強い反発が湧きました。

逆に、それは危ないと煽る市民活動家や非主流派の「専門家」の言葉を信じる人が多数となりました。

これは、「コミュニケーション」というものを考えていけば理解できます。

自分たちが持っている何となく不安という感情を理解してくれるかどうか。

科学者たちは、知識は正確かもしれませんが、聞くものたちの不安を理解することはなかったために、その言葉は人々の心には届きませんでした。

不安を煽る人々、これは実は聞く者たちからは「不安に寄りそう人々」と見えたのですが、その言葉は自分たちの感情を理解しているように思い、その意見を信じてしまいました。

このような構造は現在でも変わってはいないようです。

 

このように、「不安を抱える人々」については、一方的に「正しい知識」を押し付けようとしてもだめで、コミュニケーションを考えるしかないということですが、「デマと差別」に関わる部分では違います。

「血液型が〇の人はこうだ」と自分で考えているだけなら仕方ありませんが、「うちの会社では血液型〇の人は雇わない」とか、広く読まれる本や新聞などで「血液型〇の人は屑だ」などと言うことは問題です。

福島原発事故直後にも、明らかに間違った根拠で発言していた有名人が居ますが、彼らが発言を訂正したということはありません。

また、報道メディアの姿勢も問題になります。

さんざん放射能の危険性を煽ってきたメディアが、2017年に日本学術会議が被ばく線量の低いことを結論付けた報告も、福島県内の地方紙以外ではほとんど報道されませんでした。

これも、多くのメディアがきちんと報道するべきものでした。

さらに、「放射能が伝染する」「放射能が遺伝する」といった、まったく間違ったことが言われることがあります。

これらは科学的に間違っているだけでなく、個人の人権をはなはだ侵害するものであり、こういったものは厳しく正す必要があります。

 

原発事故とその後の「食」の問題について、非常に筋の通った議論であったと感じました。

「科学的に正しければよい」とは行かないということは重要なポイントでしょう。

私もどちらかといえば科学重視の立場ですので忘れてはいけないことかもしれません。