柘植さんはフランス外人部隊やアメリカの特殊部隊に所属、その後軍事評論家として多くの本を書いています。
この本では日本の有名な合戦を取り上げ、勝敗を分けた点を解説、「こうすれば勝てた」というところも指摘しています。
対象は源平合戦の一の谷の合戦、戦国時代の長篠の合戦、そして幕末の鳥羽伏見から西南戦争の熊本城・田原坂の戦闘まで10の合戦を扱っています。
ただし、有名ではあるものの多くはその指揮者に大きな欠陥があるものが多く、「こうすれば勝てた」とは言ってもその大将が一番の問題というのではちょっとと思わせるものかもしれません。
源平合戦の平家、長篠の戦の武田勝頼、山崎の合戦の明智光秀等々、戦いの全体像の把握もせず、戦場を周到に検討することもせず、味方を十分に掌握することもせず、まあ敗けるべくして敗けたとしか言いようのないものです。
とは言ってもそれで済ませてしまうとせっかく様々な考証を重ねた柘植さんの努力がもったいないので、「こうすれば勝てた」という例を一つ紹介しておきます。
本能寺の変で信長を討った明智光秀は、根回しも何もなかった突発的衝動的な行動であったために、そこから畿内周辺の武将や大名に助勢を要請します。
しかし有力大名からは断られ、もっとも頼りにしていた細川すら味方にすることはできませんでした。
ところが光秀はその状況での動きが緩慢で、中国の前線から急ぎ立ち返った羽柴秀吉に山崎の合戦で敗けることとなります。
光秀は畿内を押さえる目的からか、近江長浜や安土、佐和山をめぐりそこに守兵として合わせて4000人ほどを残し、自らは秀吉に備えて京都南方に移動します。
そして決戦の地ははやり山崎と予想したのですが、天王山はいったんは押さえたもののすぐに撤兵し平地の淀城に入ります。
歴史ではこの天王山を秀吉方に押さえられて敗勢となります。
「こうすれば」では当然ながら天王山は死守することとします。
さらに長浜などの4000人の兵も速やかに合流させていれば十分に戦えたとしています。
長浜や安土などはたとえ一時的に敵に奪われても秀吉さえ倒せばあっという間に日和見の大名たちが味方につき、勢力は他を圧倒することができたでしょう。
天王山を押さえれば京都に向かう道はその麓の山崎の隘路のみであり一気に秀吉軍に攻めかかれば多少の兵数の差も逆転でき、勝利の確率も相当高かったということです。
まあ、後から考えれば最良の方法も見つけやすいということなのでしょうが、それだけでなく計画段階から何通りもの方策を立てその中からベスト3を選び詳細に考えておくべきだということです。
もっともよい状況のプランもそれが成り立たない場合はその次、その次と変更をしてその時点での最良のプランに持っていく。
そういった企画ができなければ戦争の指導者にはなれないということでした。