爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「本能寺の変に謎はあるのか?」渡邊大門著

ちょうど大河ドラマでは明智光秀を主人公とした物語が放映されていますが、その本能寺の変の描き方はどうなるのでしょうか。

 

絶大な権力を手にした織田信長を一瞬の隙をつき打ち取った本能寺の変は、その裏に何があるのかということは多くの人々の興味をひいてきました。

その原因について、怨恨説、不安説、野望説といったものから、足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説などなど、さまざまなものがあるようです。

 

しかし、本書著者の渡邊さんはあくまでも歴史の研究の手法として確実な史料しか採用しないという原則を守り、そういった諸説を論破していきます。

 

歴史史料には一次史料と二次史料とがあり、一次史料は同時代に作成された古文書、古記録といったものであるのに対し、二次史料は後世に編纂されたものです。

例えば、鎌倉時代吾妻鏡も二次史料に分類されるものであり、その内容の妥当性は十分に検討すべきものです。

 

しかし、本能寺の変に関するものは、その直後に明智光秀も討伐されるということになったため一次史料が非常に少なくなっており、その研究もやりづらいものです。

 

また、特に当時のままの一次史料の場合、それを読み解くということが非常に難しいものとなっています。

字の判別が難しいのは言うに及ばず、用語が現在の通念と違う使い方がされているという例も頻繁にあり、専門の研究者の中でも解釈が異なることもよくあるそうです。

 

なお、一次史料であっても書き手の状況によってすべてを真実と考えることができない場合もあり、秀吉が自ら書いた書状(10月18日付)には備中高松から姫路まで27里を1昼夜で行軍したと書かれていますが、自らの軍功を誇大に書いたものと考えられます。

 

本能寺の変に関しての他の一次史料としては、公家や朝廷の日記、僧侶などの日記もありますが、同時代の記録とは言え伝聞の内容がほとんどであり、間違って伝わったものもあるようです。

 

二次史料では「信長公記」が有名で、信長に仕えた側近の太田牛一が老後に書いたものですが、成立したのは信長死後16年を経た時です。

これは比較的良質な内容であると判断されています。

それ以外の二次史料は本書著者は「使わないにこしたことがない」「史料として適さない」と酷評されています。

 

 

本能寺の変を光秀がなぜ起こしたのか、それを説明する「怨恨」「不安」「野望」といったものの根拠はほとんどがこの「質の低い」二次史料のみによるものです。

 例えば、光秀が信長の命により丹波の攻略をした際、丹波矢上城の降参寸前に城主らを城外に連れ出すために光秀が母を人質にしたものの、城主は信長により磔刑とされたため光秀の母は殺され、それがもとで光秀は信長を恨むようになったという話があります。

しかし、これは「総見記」という本能寺の変から100年ほど後の軍記物語の一種のものに書かれているだけで、そもそも総見記は史料価値の低いと言われている小瀬甫庵の「信長記」を下敷きにしているためさらに信用に値するものではないとされているものです。

また、武田氏滅亡のあと家康を饗応するように信長に命ぜられた光秀が、腐りかけた食材を使おうとしたとして信長に叱責されたという、「家康饗応事件」のために光秀が信長に恨みを抱いたという話もありますが、これも川角太平記という二次史料に記述があるのみで、他の確かな史料には見られないものです。

 

他の史料から見れば、矢上城はほぼ抵抗力が無くなってからの城主下城でありその状況で人質などを差し出す必要もなかったものですし、家康の饗応も上手く行ったという記録があります。

 

他に、足利義昭が光秀謀反の黒幕であったという説や、朝廷が光秀に指示したという説もあります。

こちらは、怨恨説などよりは真実味がありますが、どうでしょうか。

 

足利義昭は結局は信長と対立して京都から追放され、毛利を頼って落ち延びたのちも大名に信長追討の指令を出し続けたという記録がありますので、光秀にもその働きかけをしたのではないかという推測は可能です。

このあたりでは、周辺の関係者の書状などが見つかっており、その文面の解釈次第では可能性ありと言えなくもないようですが、著者はやはりその解釈は無理があるとしています。

光秀がたまたま信長を討ち果たしてしまったために、あわてて義昭が動きを見せたということはあったかもしれませんが、だからといって「義昭が黒幕」と言うのは無理でしょう。

 

朝廷黒幕説というのは、信長と朝廷との関係が徐々に悪化したために朝廷が信長討伐の密勅を光秀に与えたというものです。

関係悪化の論点は研究者により差はありますが、おおむね次の5点です。

1、信長が正親町天皇に譲位を強いた。2、信長が京で馬ぞろえを行なった。3、信長が右大臣・右大将を辞任した。4、信長が左大臣に推任された。5、信長が三職(関白・太政大臣征夷大将軍)に推任された。

こういった点から徐々に信長は朝廷を圧迫するようになり、それに危機感を抱いた朝廷が光秀に信長を殺害されたというものです。

しかし、大方の史料では信長は朝廷を圧迫した証拠はなく、どちらかといえば尊重はしていたようです。

ただし、積極的に朝廷に取り入ろうとしたわけでもなく、つかず離れずといった態度だったようです。

正親町天皇に譲位を強いたというのも、後世から考えれば大変な不敬とも見えたのかもしれませんが、当時の状況は「天皇は進んで譲位したがった」という方が事実に近かったようで、上皇に早くなりたかったものの金が無くて譲位式ができなかったというもののようです。

 

なお、光秀が本当に「明智氏」であることも史料的には不確かなもので、光秀の系図というものもありますが、父親の名前が違っていたり、一次史料には父親が見えず、前半生を美濃で送ったということ自体まったく記録が残っていないようです。

したがって、有名な連歌会での「ときはいま」が土岐氏である自分が天下を取る意志の表れだという話も、光秀自身土岐明智氏の流れをくむということが怪しい以上、怪しい話だという判定です。

 

結局、本能寺の変と言うものは黒幕などがあって計画的に実行されたなどというものではなく、たまたま無防備で本能寺に居た信長を、将来に不安を抱えた光秀が突発的に攻撃してしまったというもののようです。

やってしまってからの光秀の行動もとても計画があってのことではなく、頼りとしていた細川氏筒井順慶も協力を拒み、どたばたと朝廷や諸大名に働きかけてもダメで結局は秀吉に破られました。

最後はあまり面白い結論ではなかったのですが、歴史的事実などというものはこういったものなのでしょう。