明智光秀の娘として生まれ、細川忠興に嫁ぎ、その後キリシタンとなり最後は関ヶ原の戦いに先立ち石田三成に人質とされようとして非業の最後を遂げた、細川ガラシャという名は有名でしょう。
キリシタンとなった女性としては最高位の一人であったことで、イエズス会の報告にも名が載ったためにヨーロッパでも知られています。
しかし、著者の安さんがこの研究を始めようとした時には、ガラシャに関する研究が意外なほどされていないことに驚いたそうです。
そのガラシャについて、安さんの専門であるキリシタン史の観点から、イエズス会史料により重点を置いて調べなおしてみた意欲作です。
細川に嫁いで数年して父親の明智光秀が織田信長に反逆したために、形の上だけですが離縁され水土野という僻地に幽閉されます。
これはどうやら秀吉などの眼から隠してかくまったもののようです。
しかしその後赦免されて大阪の細川屋敷に戻ってからキリシタンに入信したいという強い思いを持ったのは、幽閉当時には想いを持っていたのかもしれません。
イエズス会の大阪の教会にガラシャが訪れたのはただ一度だけでした。
ちょうどその時には宣教師の責任者プレネスティーノはちょうど不在で次席のセスペデスのみが居ました。
彼女は洗礼も受ける覚悟で来たのですが、その場で行なうことは教会側が断りました。
この時、教会は彼女がもしかしたら秀吉の側室ではないかと疑ったのでした。
秀吉はその時すでにバテレン追放令を出したばかりで、教会の敵となっていたことに加え、一夫一婦制のみを認めるキリスト教の教義から、側室という存在は認められないものだったからです。
しかし、帰るガラシャの跡をつけ、細川邸に入ったことで細川夫人であることが分かりました。
その後はできるだけ入信ができるように図ったのですが、邸外に出ることは厳しく禁止されていたために教会を訪れることもできず、宣教師の洗礼を受けることはできなかったために、先に入信していた侍女による代洗という方法でキリシタンとなりました。
夫の忠興はまったくキリスト教入信の考えは無かったものの、あえてガラシャの入信を妨害するというほどの考えでは無かったようです。
しかしガラシャはそのような状態を変えようと、離婚して一人静かに信仰の生活をしたいと教会の助けを求めます。
ところがカトリックでは離婚ということは認めていないため、宣教師たちは必死で思いとどまることを説得します。
その後、忠興もあえて信仰の邪魔をするということもなかったために10年ほどは安寧な日々が続くのですが、関ヶ原の戦いが近づくことで悲劇が起きました。
忠興や長男忠隆、次男忠秋は徳川家康の東軍に加わるために大阪を発ちますが、その際に先の事を見越して「もしも人質となるようなことがあれば自害すること」をガラシャや臣下たちに命じていました。
その予想通りに石田方は人質を出すように申し入れ、それを断られると軍勢を細川邸に向かわせます。
そこでガラシャは死を選ぶわけですが、ここにもキリシタンと言う問題があります。
キリスト教では自殺ということを厳しく禁じており、自殺者は埋葬もできないことになっています。
ここでの死に方というのも、実は前もって教会のオルガンティーノと何度も打ち合わせをしていたようです。
ガラシャの最後にはいくつかの説があり、自分で短刀で胸を突いたという説や、臣下の小笠原小斎がガラシャを切ったという説もあります。
しかし、自分で胸を突くのは明らかな自殺ですし、他人に切らせるというのも自殺と変わらず教会の解釈では自殺と判定されるはずです。
ここでは、オルガンティーノの非常に苦労した解釈があったようで、ガラシャの最後は殉教ということになるということにしたようです。
結局は殉教者とは認められなかったのですが、自殺者とも見なされなかったのは間違いなく、一年後にはガラシャを祀るミサを執り行い、そこには忠興も出席していたということです。
なお、人質になるくらいなら死ねという命令は現代人から見れば冷酷なだけのように感じますが、実はこれは細川家を守るためにどうしても必要な事であり、忠興だけでなくガラシャも十分に納得したうえで決めたことだったようです。
その甲斐あり?細川家は大幅な加増を得ることができ大大名として続くことになりました。
ただし忠興の跡を継いだのは長男ではなく三男の忠利となったのは、この時の事情が影響したようでした。
ガラシャに関する報告がイエズス会に残ったことで、ヨーロッパでは意外なところでその名が知られることになりました。
17世紀のウィーンのハプスブルク家ではイエズス会を後援していたため、その宮廷で「丹後国王の后、気丈な貴婦人グラティア」という戯曲が上演されたそうです。
ガラシャの実情とは違い夫の迫害で殉教するという内容だったそうですが、間違いなくガラシャについての報告を基にしたものだったようです。