ユネスコの世界遺産というものが有名ですが、それに倣って色々な「○○遺産」というものが選定されています。
国が指定する国宝・有形文化財といったものも同様でしょう。
日本の鉄道も150年が経ち、まさに遺産というべきものもあります。
ただし、現在のところ国宝になっているものは無く、有形文化財となっているものがわずかにあります。
このままいけば徐々に忘れられ失われていくものもあるかもしれません。
そこで、著者が独断で東京に残る鉄道遺産というべきものを100選んでみました。
日本最初の鉄道は東京から出発しましたし、その後も首都の交通として重要なものであり数々のものが残っています。
特徴的なもので類別し、「煉瓦建築」「多摩川砂利のコンクリート」「軍用線」「都電・地下鉄・都市インフラ」「駅舎と駅の施設」「保存車両」としてそれぞれ重要な遺物を選定しています。
現在は東京の鉄道の中心となっている東京駅ですが、実際はその建設時期はかなり後でした。
東海道、中央、東北などの方向から首都を目指した鉄道は手前の駅でストップし、そこから先は結ばれていないという時代がありました。
それでは不便ということで東京駅を目指して延伸していきました。
その時代、明治末年にはすでに煉瓦で高架線を作るという技術が実用化されていたため、東京駅を中心とした高架線が広がることとなります。
現在でも東京駅から新橋方面にかけてレンガ作りの橋桁の上に線路が通っているという光景は誰もが見た覚えがあるでしょう。
この区間、当時の地名で新銭座町と永楽町を結ぶということで、「新永間市街線」と関係者には呼ばれていたそうです。
現在の東京駅から浜松町までの区間にあたります。
駅周辺にもレンガの橋が伸びており、そこで店が営業しているという光景も見られます。
都電は現在は早稲田三ノ輪間の荒川線のみとなっていますが、かつては都内の広い範囲に多くの路線が伸びていました。
まだ自動車交通が盛んでない時代には都内の交通の主要手段として重要なものでした。
昭和5年、国鉄東京駅の乗降客が一日あたり16万4000人であったのに対し、有楽町に近い日比谷交差点の市電停留所の乗降客が同じく11万2000人であったそうです。
しかし戦後自動車の数が増えるにしたがって道路を占有する路面電車の廃止が昭和42年から次々と進み昭和47年に荒川線を除くすべての路線が廃止されました。
荒川線は当時から路面電車ではなく専用線を走るものでしたので、辛うじて残ったものです。
都電のかつての線路、設備などは道路上にあるものがほとんどだったため、現在まで残っているというものはほとんどありません。
わずかに勝鬨橋に都電用の架線柱が残っています。
また旧都電38系統の南砂緑道公園に線路と車輪がモニュメントとして保存されているそうです。
意外に東京駅地下などにかつての設備の遺構などが残っているようです。
これからもどんどんと変わっていくのが東京でしょうから、意識的に保存していかなければ無くなってしまうでしょう。