原さんは社会思想史の大学教授のかたわら著述も多くされているようです。
また、父親の代からの鉄道好きで子供の頃からあちこちに出かけていたということです。
そんな原さんが、かつて講談社のPR雑誌「本」に、「鉄道ひとつばなし」というコーナーを連載していました。
それをまとめた本も出版されたのですが、そのうちに「本」という雑誌自体が廃刊となり、「鉄道ひとつばなし」のまとめの本の出版も途絶えてしまいました。
少し時が経ってから総まとめの本として少し書き下ろしの文章も加えてこの本としました。
内容は鉄道に関するあれこれ、昔の思い出もありますが現在の鉄道の在り方に対しての厳しい意見もあるという、様々な色合いの文章が混在するというものになりました。
皇室と鉄道の関係と言ったものを集めた、最初の章「菊と鉄道」から始まり、最後は「コロナと鉄道」という最新の状況まで触れられています。
鉄道の駅名で、「何とか前」といった「前」の付くものがあります。
ただし、それは鉄道会社により傾向が異なるようです。
東京横浜電鉄(現東急東横線)の創業当時の丸子多摩川は昭和6年に駅前に多摩川園遊園地が開業したためにその時に「多摩川園前」という駅名に変更しました。
しかし、その後1977年になって「園」の字を取って「多摩川園」という駅名に変更しました。
なぜその時に「前」の字を取ったのか、その理由がよく分かりません。
実はその時に東急田園都市線の「二子新地前」という駅名も「前」を取って「二子新地」に変更されています。
どうやら、東急と言う会社が「前」の字を取りたいという姿勢のようで、「前」の字が残っているのは目黒線の不動前と世田谷線の松陰神社前だけになっています。
同様の傾向が京成にも見られ、センター競馬場前、国鉄千葉駅前と2つあった「前」の字を駅名変更で「船橋競馬場」と「京成千葉」にしてしまいまいた。
ところが小田急はまったく姿勢が異なり、「前」の字が大好きだそうです。
成城学園前に始まり、次々と前の付く駅が開業していきます。
玉川学園前、読売ランド前(ただし駅から2㎞離れているそうです)、が続き、さらに最近になっても東海大学前、六会日大前などが登場しています。
国鉄にはそういった駅名はほとんど見られなかったのですが、JRに分割された後、とくにJR九州は「前」の字が好きになったらしく次々と「学校名+前」の駅名に改称し今では12駅あるそうです。
「山形新幹線を考える」という文章はちょっと辛口でした。
東京から山形までは山形新幹線の「つばさ」を利用することで乗り換えなしに行くことができますが、福島から山形までは在来線時代の線路をほぼそのまま新幹線化したため、それほどスピードが出ません。
また福島で東北新幹線の「やまびこ」に併結されて運行されるのですが、つばさが遅れた場合にやまびこまで遅延することになるので、それを避けるために少しでもダイヤが乱れるとつばさは運休にされてしまいます。
運休にされた本数は年間410本にもなったそうで、山形では問題視されているそうです。
また新幹線開業当時は仙台からの在来線の仙山線に特別快速や快速も走らせていたため新幹線を使わなくても利便性があったのに最近では特快は廃止、快速も本数を減らすと言ったことになり、不便になっています。
仙山線の利便性が復活すれば山形新幹線を使わずとも東北新幹線と仙山線で大して時間も変わらずしかも運休が少なくなり良くなるはずです。
新幹線の利用率を増やしたいがためにこういったダイヤにしているのではないかという批判です。
「聴覚と鉄道」という話も考えさせられる内容でした。
かつては駅の放送や列車内の車内放送では「名人芸」と言えるような話し方をする駅員や車掌さんがいて、聞きほれることもあったということです。
しかし今ではどちらも電光掲示板の表示が優先し、たまに放送があってもあらかじめ録音されたものが流されるだけという状況です。
これはやはり、放送自体が「ラジオからテレビ」へ変化していったということと関係しています。
1960年代まではテレビは放送開始していたとはいえ、ラジオがかなり普及していました。
その中では聴覚というものが人々でも研ぎ澄まされており、それに対応して話す方も技を磨いたということです。
しかしテレビが普及しほとんどそればかりになっていくと、聴覚よりも視覚を優先する傾向となりました。
それに伴い、駅の放送も車内放送も味のあるものが無くなってしまったということです。