爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「戦国時代は何を残したか」笹本正治著

歴史好きな人にどの時代が一番かと問うとかなりの比率で「戦国時代」と答える人がいるようです。

しかし、その頃の民衆の生活を長く研究してきた歴史学者の著者から見ると、多くの人々が殺されたりひどい目にあっていた時代を単に英雄が活躍したというだけで好きなどと言ってほしくないという気持ちを持つようです。

そこで本書ではその戦国時代の民衆に焦点を当て、本当はどのような時代であったのかということを示したいということです。

 

戦争に際しては兵士以外にも多くの人が殺されたということも事実ですが、それ以上に敗者の家族だけでなく、手当たり次第に人々を捕らえて奴隷としたという、「人狩り」というものが付き物でした。

人の売り買いということはその前の時代からも行われており、それの専門業者のようなものもあったのですが、戦場での人の捕獲ということは平時とは比べ物にならないほど大量であったようです。

これには戦をする側の事情もあり、上級の武士や正規の臣下たちは戦いに勝利すれば恩賞を貰えるということがあったのですが、足軽やその場限りの雇い兵の場合はそれが期待できなかったので金を得る手段がなければ働きませんでした。

略奪といってもさほど金目の物があるわけでもなく、一番の価値があるものが人間だったということです。

相手も戦いの敗者だけではなく、近くの村の民衆がいればそれを狙うといったものでした。

 

そのためもあり、戦に関係のない近在の村々も対抗措置を考えました。

武田信玄が始終攻めてきた信州の村々には近くの山の中に避難所を設け、女子供や老人はあらかじめ隠しておいたそうです。

さらに若い男性たちは自ら武器を取り近づく者から守るということもありました。

まだ刀狩以前の話ですので、刀や槍だけでなく鉄砲なども持っての防衛だったそうです。

 

しかし、全国平定が徐々に近づいてくると民衆もその後の生産者となるわけであり、勝手に人狩りをされては困ることになります。

そのため大名も徐々に人身売買を禁止する法令を出すようになります。

そして秀吉に至りようやく全国的にその禁止令を出し人を売買したものは成敗するということを命じました。

ただし、朝鮮出兵の際にも一応禁令は出していたのですが、多くの人々を捕らえて連れ帰ったのは周知の事実であり、その人々を使い各地で陶芸などが始まったのも有名な話です。

 

最後の一揆と言える、島原の乱では肥前原城に立てこもった一揆勢は老若男女を問わずすべてが殺害されその数は3万7千人と言われています。

しかし、それがキリシタンだったからというわけでもなく、その前の時代の一揆との戦いでも多くの場合は一揆勢は男女問わず皆殺しというのがいくつもありました。

信長の伊勢長島一向一揆の時の話はよく知られていますが、それ以外にも各地の一揆の鎮圧では皆殺しにするということが多かったようです。

伊賀の国一揆の場合はその当時の人口が国全体で9万人ほどのところをその内の3万人近くが殺害されたそうです。

それを伝え聞いた信濃や甲斐の民衆は武田征伐で信長軍がやってきた時には山奥に避難したのも当然の話でした。

 

武田信玄が水害対策として河川工事を行い、「信玄堤」を作ったということは有名ですが、信玄以外の大名も治水工事には力を入れました。

しかし、このような大地に手を入れるような大工事というものはそれ以前の時代にはほとんど行われることはありませんでした。

それは地の神の怒りに触れるという信仰があったからのようです。

戦国時代を通し、そのような人々の信仰心が徐々に薄れて行ったことが、あのような大工事の実施を可能にし、それが江戸時代に続いて近代の精神に続いていったということです。

これも戦国時代が残したものだということです。

 

大名や武将などの華々しい活躍だけを見ていては戦国時代というものは何も分からないということでしょう。