爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「一冊でわかる トルコ史」関眞興著

色々なところで日本と関わりはあるものの、その歴史についてはほとんど知られていないのがトルコでしょう。

この本では、その世界でも有数の古さを持つその歴史について、ごく初歩的なことを説明しています。

 

ただし、現在の「トルコ共和国」の範囲であるアナトリア半島について語られますが、「トルコ人」と呼ばれる人々がここに移り住んできたのは新しく、アナトリア半島セルジューク朝トルコが支配下においたのは1071年以降です。

この本では、トルコ人が支配する以前のこの地域についても若干は触れていますが、多くはトルコ人の国ができてからのことを書いています。

また、ここに来る以前のトルコ人についても触れています。

 

古代のアナトリアには次々と様々な民族がやってきて代わるがわる支配していました。

最初は紀元前17世紀のヒッタイト、しかし紀元前12世紀には海の民の攻撃により衰退します。

紀元前8世紀にはアッシリア王国が支配しますが、それもすぐに滅亡、アナトリアにはリディア王国が成立し、史上初の金属貨幣が鋳造されます。

紀元前6世紀にはイランにアケメネス朝ペルシアが起こりアナトリアも支配し、ギリシア人の植民都市イオニア支配下におきます。

この頃にギリシアとの間にペルシア戦争が起きています。

その後、アレクサンダー大王の後継のセレウコス朝によりアナトリアも支配されます。

紀元前2世紀にはローマによりこれらの王朝は滅ぼされ、ローマ帝国の一部となります。

 

その頃まではトルコ人となる人々の祖先はモンゴル高原で遊牧生活をしていました。

中国に侵入を繰り返した匈奴はモンゴル系ですが、トルコ系の人々もその近くに住んでいました。

その後中央アジアから中東へと広がっていきました。

突厥という国ができたのは6世紀ですが、これがトルコ系民族が建国した最初の大国です。

徐々に中央アジアに進出するとその頃にはイスラム教が広がっていたためにイスラム化が進みます。

6世紀ごろからアラル海北方に居住していたトルコ系民族の中のオグズ族という人々の中からセルジューク王朝が生まれます。

セルジューク朝はシリアからアナトリア、エジプトにまで広がりアナトリアのトルコ化の始まりです。

 

13世紀後半になるとセルジューク朝は弱まり、オスマン侯国が興隆していきます。

オスマンの後を継いだオルハンにより、バチカン半島に侵攻し、その子孫ムラト1世はさらにバルカン半島に勢力を広げます。

その子、バヤジット1世の時にはハンガリーを除くバチカン半島すべてを支配下におきました。

支配下キリスト教徒の子どもを登用し兵士とするイェニチェリという軍団は有名なものです。

これはオスマントルコ帝国の主要な軍制として続きますが、弊害も大きくなっていきます。

 

オスマン帝国の特徴あるものとして、皇帝位の継承時に就任した皇帝がそれ以外の兄弟を殺してしまう「兄弟殺し」というものがあります。

その後の皇帝位を争う紛争の種を最初に除去してしまうということなのでした。

 

19世紀になるともはやほとんど国力を失っていたオスマン帝国は南下を繰り返すロシアやヨーロッパ各国との抗争でもさらに疲弊し、改革を求める人々により解体が進められます。

ケマル・アタ・チュルクという名は有名ですが、トルコ共和国建国の業績は合ったものの、最後の頃には独裁化してしまったようです。

彼が1931年に定めた「ケマルの6原則」というものがあるそうです。

共和主義、民族主義、人民主義、国家資本主義、世俗主義、革命主義ということで、イスラム教の影響を避けるとともに、ソ連共産主義とも対峙して行くという中で厳しい国家運営だったようです。

しかし、明らかに多民族の含まれるトルコで民族主義というのは最初から矛盾を含むものだったのでしょう。

それが今でもクルド人の反抗につながっているのでしょうか。