爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「岡田英弘著作集Ⅰ 歴史とは何か」岡田英弘著

岡田英弘さんの著作は、若い頃に「倭国」という本を読み、その東アジア全体に視線を送りながら日本の状況を見るという姿勢に大きく影響を受けました。

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その岡田さんの著作集全8巻が、いつも行く市立図書館にありましたので、その第1巻を読んでみました。

全集の最初ということでしょうか、「歴史とは何か」という基本的な歴史観を語った文章を集めたというもののようです。

また、岡田さんの経歴から学問の進め方というところも書かれており、その姿勢が成り立った経過も分かりました。

 

岡田さんは終戦直後に大学進学の時期を迎え、どこに進むか迷ったうえで東洋史学を選んだそうです。

そして、最初は朝鮮史を学びその後満州からモンゴルといった地域を専門としていったとか。

それで、あのような独自の歴史観というものが得られたと理解できたとともに、史学会という中では異端者であろうということも分かりました。

 

日本の歴史学は、日本史(国史)と世界史という枠組みで進められてきました。

世界史は西洋史東洋史とに二分されています。

しかし、西洋史と言いながらその内容はほぼヨーロッパのみ。その前段階と位置づけてギリシア・ローマを論じるだけです。

東洋史はシナ(岡田さんは「中国」という呼び方は不正確であり、「シナ」と呼ぶべきとしています)を扱うのみで、その他の地域はシナとの関連でしか扱いません。

そして、日本史、西洋史東洋史のいずれもがその他の2つとはまったく関連を持たず、好き勝手にその内部だけで進められているとしています。

 

しかし、その実態は、「世界史はモンゴルの制覇から始まった」ということです。

モンゴルがシナ全域を制覇し、中央アジアからロシア、中東、ヨーロッパの東端まで制覇したことによって、それ以外の地域も含めて一つの世界というものになったからという理由です。

資本主義というものも、その原型はシナの宋王朝時代に成立したのですが、それを滅ぼしたモンゴルが中東から東ヨーロッパに持ち込み、それに影響を受けたイタリア諸都市が取り入れたのがヨーロッパ資本主義の始まりとなったという解釈です。

 イタリア・ルネサンスもヨーロッパ文明から見ればオスマン・トルコによりコンスタンティノープルが陥落させられ、多くの学者がイタリアに亡命してから起きたとされていますが、実はモンゴル帝国の影響で起きたと見られます。

 

世界史といっても、世界の諸文明を見た時に「歴史を持つ文明」と「歴史を持たない文明」とがあるということです。

歴史を持つ文明とは、西ヨーロッパと日本です。

西ヨーロッパは、ギリシアのヘーロドトスの歴史観からユダヤキリスト教歴史観を含み発展した歴史を持つということです。

日本では、シナの司馬遷が作り出した史記歴史観を取り入れ、それを発展して歴史を作り出しました。

 

一方、歴史を持たない文明とは、アメリカ、ロシア、中国です。

アメリカはヨーロッパの旧世界を捨てて移住した人々が作った国で、いわば歴史を捨てイデオロギーだけで作った国です。

ロシアはその成立から混迷しており、アイデンティティも不確実です。さらに、13世紀からモンゴル帝国に支配されており、通説と異なりその完全な支配下に置かれていました。

それから抜け出したのはせいぜい18世紀ということです。

中国も、ほとんどの王朝は北方の遊牧民族が立てたものであり、漢人の国家は宋王朝で終わり明王朝以降もモンゴル文明の一部に過ぎないという解釈です。

清王朝を倒して以降も、日本の真似をしたりソ連の影響下に入ったりと、典型的な「歴史を拒否した文明」となっています。

 

さらに典型的な歴史のない文明というのは インド文明だそうです。

古代から都市文明を持っていますが、歴史を記述したことがなかった。

インド史が書かれたのはイギリスが入ってきて東インド会社を作ってから後だそうです。

 

歴史を作り出したといっても、ギリシアのヘーロドトスとシナの司馬遷はその内容に大差があります。

ヘーロドトスは「ヒストリアイ」という本を書き、それが歴史を著しているということで、ヒストリーという英単語までつながることになりました。

しかし、ギリシア語の元の意味では「ヒストリア」は形容詞の「ヒストリア」から来ており、それは「知っている」という意味だったそうです。

そこから名詞化して「ヒストリア」は「調べてわかったこと、調査研究」という意味になりました。

ヘーロドトスは、ギリシア人とペルシア人が戦ったことを調べてわかったことをこの本に書いたのでした。

その主題は「アジアとヨーロッパの戦い」を書き残すことであり、しかもヨーロッパが最後には勝つということでした。

(ここで言うヨーロッパとはギリシアのことであり、アジアは現トルコのこと)

 

司馬遷が書いたのは「史記」ですが、これを「歴史の書」としたのは後世であり、もともとは司馬遷漢の武帝に仕えた「太史令」であり、その太史令が書いた書と言う意味でした。

史とは当時は帳簿を書く人ということであり、いわば帳簿係ということです。

そして、司馬遷が書いたものも正統な王朝の記録を残すというのが本来の目的であり、史記にはそれ以外のものは書かれていないということです。

史記は本紀、列伝などで構成されていますが、本紀はもちろん王朝の正統性を記述しており、さらに列伝も一見したところその時代の特色ある人々を描いているようで、実際は彼らと王朝との関わりだけを書いているということです。

 

岡田さんはやはり異色と言える歴史家であると言うことがよく分かる内容でした。

ただし、「歴史」というものをかなり厳格に捉えられているためか、「人間」が関わるもの以外は「歴史」ではないという姿勢が頑なであり、「宇宙の歴史」とか「地球の歴史」なんていうものに「歴史」という言葉は使えないという意見には少し困ります。

地球の歴史というものも確かに存在し、それを何らかの言葉で表現しなければなりませんので、意味は違うのでしょうがやはり「歴史」としか言いようがないと思います。