宮城谷さんは中国の春秋戦国時代などを題材とした小説で活躍されてきましたが、若い頃の読書は三国志演義から始まったそうです。
しかし小説と実際とは違うと思い三国志の正史を読むようになり、さらに時代を遡って春秋左氏伝へと移り、長い間三国志の時代からは遠ざかってしまいました。
その後、三国志の時代へと興味が戻り、色々と調べ、その時代の人々を描いた小説も書きました。
宮城谷さんの調査は非常に細かいところまで及ぶようで、史書の記述でも疑問を感じたら深く調べていき、さらに記録がないところは想像を働かせています。
それで小説は史実とは少し離れても人間の実生活を感じさせる描写となってきます。
この本では、三国志演義の記述をざっと紹介した後は、史実として残っているところからの描写を、主要人物、有名な戦闘を対象として行い、さらに三国志から生まれた言葉も紹介しています。
演義では劉備は主人公の一人として非常に素晴らしい人物のように描かれていますが、実際のところはそうでもなかったということは言われます。
その生涯を見ていくと、「まったく恩返しをしていない」ことが分かるそうです。
自分を育ててくれた母に何をしたか、それがどこにも書かれていません。
また、若い頃に学を志し遊学した際に学費を出してくれた劉元起にどう報いたかということも触れられていません。
どこにも記述が無いということは、何もしなかったということを示しています。
橋玄を生涯の恩人として尊崇し、子孫にまでそれをさせていた曹操とは違うところです。
これを宮城谷さんは「劉備は棄ててゆく人だった」と表現しています。
それはいわば「薄情な人、恩知らず」ということですが、そうとばかりも言い切れないところが不思議なところです。
なお、黄巾の乱が始まる以前から劉備は若いものを集めて義侠の集団を作っているのですが、関羽・張飛もすでにその頃からそこに属していました。
つまり「桃園の誓い」は全く無かったことのようです。
諸葛亮(孔明)の出生、前半生についてはほとんど分かっていません。
父の諸葛珪は泰山郡の丞となったことは分かっています。
それが諸葛亮5歳くらいのことのようです。
しかし8歳の時に泰山のある青州や徐州の黄巾の徒が反乱を起こしました。
この討伐に関わって、父は戦死したかその後すぐに病死したのではないかというのが宮城谷さんの推察です。
というのが、諸葛亮が良く口ずさんでいたのが「梁父吟」という歌だったということですが、この梁父というのが泰山のすぐ南の小山の名で、そこは多くの墓地があるからだということです。
その後諸葛亮と弟の均は叔父の諸葛玄に養われました。
そして叔父は袁術により予章郡の太守となることを命じられ、諸葛亮と弟を伴って赴任するのですが、戦乱に巻き込まれて亡くなってしまいます。
諸葛亮はそのために襄陽の付近で隠棲することになったのではないかという推察です。
諸葛亮は政治外交の才能はあったものの、軍事の才能は全く無かったようです。
そのため、蜀の宰相となった後も魏との戦闘の際馬謖のような口だけの軍略も見抜けませんでした。
中国の歴史の中でも良く知られているように思える三国時代ですが、やはりかなり不明な部分を残しているようです。