宮城谷さんは中国古代を題材とした小説を次々と発表されてきましたが、満を持して三国志に取り掛かり、この本を出版した2014年にはほぼその最終まで行き着いたところでした。
宮城谷さんもやはり三国志演義を最初に読み、中国の歴史に興味を持つようになったということです。
しかしその内容には疑問を持つようになり、徐々に本当の歴史書、すなわち正史と呼ばれる三国志や漢書といったものに移って行き、その違いというものを深く考えるようになりました。
そのため、宮城谷さんの書く三国志はこれまでの三国志演義やそれをもとに書かれた小説などとは大きく違うものになりました。
歴史的に見ればやはり曹操がその時代の主役となるべきであり、劉備などはほんの小さな存在でしかありません。
その歴史観で三国志を書くと、これまでの演義に慣らされてきた人々からは総反発を食らうのではないか、そういった怖れを抱きながらの執筆であったそうです。
しかし、そういった姿勢で三国志を書いていくということは、宮城谷さんの歴史小説というものに対する態度そのものを示すということです。
そういった立場を説明する意味で、本書冒頭には「自作解説 三国志の世界」というものを置きこの「構想10年、執筆12年」の大作を書いた心情を語ります。
その後は「歴史小説を語る」というテーマで様々な人々との対談をまとめています。
小説家ばかりでなく、歌手の吉川晃司さん、元野球選手の江夏豊さんなど、中国歴史小説の愛読者たちとの対談も収録されています。
またその次には「中国古代史の魅力」と題し、小説に限らず様々なテーマでの対談が掲載されています。
こちらの相手も様々で、白川静さん、平岩外四さん、藤原正彦さんなどと少し広い話題で自由に話しています。
中国歴史小説から発表し始めた宮城谷さんが、日本を舞台として書いた最初のものが、郷里の英傑菅沼定則からの三代を主人公とした「風は山河より」なのですが、戦国時代の資料というものがどうしても有名大名に偏っており、なかなか参考とできるものが少なくて苦労したそうです。
原稿1.5枚を書くのに1時間半は勉強するということですが、この三河の話の場合はその3倍以上の時間がかかりました。
舞台も間近にあるので取材にも何度も出かけたそうです。
それだけの努力があってこその作品ということなのでしょう。
著者が三国志演義の熱烈な愛読者であったということですが、その中でも一番心に残っていたエピソードが、長坂の戦の折りのものです。
曹操の猛追を受けて敗走する劉備は、妻子を捨てて逃げ延びようとするのですが、趙雲は嗣子の劉禅が捨てられるたびに拾い上げ、守り抜きました。
何とか逃げ延びた後、趙雲は劉備に若君を差し出したのですが、劉備は子どもを投げすて「この小童のために大将を失うところであった」と言い、それで趙雲は大いに感激し忠誠を誓ったというものです。
しかし、あとから正史を読んで行ってもこのような場面は全くありません。
それで「演義はウソだったのか」と落胆し、その後は演義がつまらなく思えるようになったということです。
白川静さんとの対談は、白川さんが漢字学の大作「字通」を完成し発表した直後のものでした。
これは今までの漢和辞典とは大きく異なり、用例を多く取り入れてこれまでの日本人が漢文から摂取してきた教養と知恵が回復できるようにという願いを込めてこういう形にしたそうです。
宮城谷さんは歴史小説というものを書いていますが、これは今まで日本で多かった時代小説というものとは異なります。
三国志演義、そしてそれに従って書かれた吉川英治の三国志などは歴史小説ではなく時代小説と言うべきものでした。
歴史小説というものが現れたのはそれほど古い話では無いようです。
宮城谷さんの意識では、歴史小説が確立されたのは司馬遼太郎さんの功績だということです。
そこでも登場人物だけを描くのではなく集団的な何かに動かされている人を描くということで、そこにリアリズムがあるという見方です。
宮城谷さんの三国志も読みましたが、やはりこういった意識で書かれたものだったということでした。
腑に落ちた思いです。