中国古代の周王朝は紀元前11世紀後半(年代は諸説あり)に殷(商)王朝を倒して建国し、およそ800年後の紀元前256年に滅びました。
紀元前771年までの前半を「西周」と呼び、それ以降を「東周」と呼びます。
さらに東周時代を春秋時代と戦国時代に分けるのが普通です。
西周の時代についてはあまり史料が残っていません。建国の頃の文王、武王、太公望といった人々、周公旦の政治、幽王と褒姒の話などは知られているもののそれも伝聞として引かれた史料がほとんどです。
文献として残すことが少なかったとも考えられますし、西周滅亡のときの混乱で史料の多くが失われたのかもしれません。
東周、春秋時代に入ると文献がかなり残っています。
そのために数々の人物が知られており、多くのエピソードも残っています。
しかし、最近では中国において遺跡の発掘も盛んに行われるとともに、盗掘によって流出したものが発見されることもあり、当時の青銅器が現れることも多いようです。
青銅器にはその製作時の由来や目的が文字で鋳込まれていることが多く、それを解読することでこれまでの歴史観を変えざるを得ないことも出てきています。
この本はそういった新出資料も含めて周王朝の時代というものを再度見直してみようという趣旨のものです。
殷を倒した牧野の戦いは史記には「甲子昧爽」つまり甲子の日の未明とありますが、1976年に西安で発見された青銅器の金文でこれが正しかったことが証明されました。
この金文に牧野の戦いの進行が記されていました。
その後、周は各地に残った殷の遺民の反乱などに苦しむことになります。
史記の記述によれば、武王は殷の地にその弟の管叔と蔡叔を起き、殷の紂王の子の武庚を補佐させたのですが、その3人が結託して反乱を起こし、それを「三監の乱」と呼ぶと書かれています。
しかし、最近公表された資料によれば、三監は商邑の人々が起こした反乱によって殺されたと書かれています。反乱の主体というものがまったく逆になっていることになります。
反乱を鎮めた周王朝はその後最盛期を迎えます。
今までの伝承では各地に諸侯を封建したのは建国直後といわれていましたが、その後の資料によればかなり時が経ってから封建された諸侯が多かったようです。
こういった封建の実情も新出の青銅器に書かれた金文から判ってきます。
またこの頃には周王朝が主催する祭祀の行事が行われ、それが青銅器に鋳込まれていることも多かったようです。それに見られる祭祀の実状は実は殷王朝のものを受け継いで開かれているように見えます。
殷王朝を打倒しても、その祭祀の礼は引き継いだということでしょう。しかし、こういった礼も西周期の後半には変質していったようです。
殷王朝の制度で特徴的なのは、「十干」で王の諡号を定めるということがありました。
武丁や帝辛といったように、十干を付けた名称で呼ばれたのですが、周王朝でもこの習慣を継承していたらしいということを示す史料が見つかっているようです。
しかし、西周期も末になると殷由来の制度はだんだんと変わっていき周独自の制度になったということです。
その頃に、厲王を追放して「共和」と呼ばれる時代が来たということは伝承があります。
これが「共和制」を指すのか、「共伯和」なのか、いろいろな説がありますが、新出の史料でもまだ決め手というのは無いようです。
共伯和という名称は金文にも出てきているので、そういった人物が居たのは間違いなさそうですがそれが王位の簒奪者なのか違うのか、まだ史料が不足のようです。
まだまだ地中には埋もれた史料が多く残っているのでしょう。
それが出てくればまだ大きく歴史観が変わることもあるかもしれません。
あっと驚くようなものも出てくることもありそうで、興味深いことです。