中国古代の殷や周の時代には青銅器が作られていました。
それは容器のようですが、日用品として使われたのではなく、祭祀に用いられたと見られています。
青銅器は錆びて崩れるということがないためか多く発掘されてはいますが、それでも限られた数しか存在しません。
中国国内で保有されているものが多いのでしょうが、日本にもいくつかは持ってこられ、蒐集されているものがありました。
明治期には清朝の混乱から多くの青銅器が日本にももたらされたのですが、その多数を買い入れて一大コレクションを作り上げたのが、住友家15代当主の住友吉左衛門友純(号”春翠”)でした。
彼が蒐集した青銅器を収蔵し展示公開しているのが泉屋博古館という美術館であり、この本の著者の山本さんはそこの学芸員ということです。
この本では泉屋博古館の収蔵品を中心に、中国古代青銅器の様々なものを写真と解説で紹介しています。
まずは、用途と形の分類から、食器、酒器、水器、楽器の数々。
そして表面の文様の種類ごとに、龍文、蛇文、鳳文、蝉文など。
そして後世重要視された金文と呼ばれる、青銅器の表面に鋳出された字の数々。
青銅器の形からの命名で、鼎というのは有名な方でしょう。
三本足であることから鼎立といった熟語にも使われていますし、「かなえ」という読みは使われることがあります。
しかし他にも青銅器の名称として生まれた文字には、「豆」「爵」「盤」といったものがあり、その後は別の用法に使われていますが、もともとは青銅器の形から象形文字として作られた文字だったようです。
ちなみに「爵」というのは青銅器としても有名ですが、その用途は酒を飲むための酒器だと考えられてきました。
これは古い方では春秋や後漢の時代にもそういう解説がされていたのですが、最近の研究では新たな出土品の中に底に煤がべったりとついているものがあり、どうやら酒を温める道具であったようです。
中国の殷の時代に生まれたと考えられる漢字は、どのように使われ始めたのかはよく分かりませんが、青銅器の表面に現れている金文と言われるものが良く知られていました。
これらの文字は鋳造された器に鏨などで彫り込むのではなく、鋳造の際にすでに鋳型にそのような文字も作り上げており、金属を流し込み固まればそこに文字が出来上がるようになっていました。
その技術は大変なものだったのでしょう。
なお、意外だったのですがそれらの文字は器の内側に作られていました。
外側は使っているうちに錆びて曇ってくるために定期的に研磨していたと思われますので、その際に文字が消えないように内側に作られていたそうです。
こういった青銅器を複製してみようという試みは中国でもかなり以前から行われていますが、日本でも現代も試行されているそうです。
しかしその技法は失われており、それを様々な方法を推理し試行錯誤でやっていくのは大変なことで、まだ分からないことも多いようです。
中国の遺跡からも鋳型というものは一切出土しておらず、どうやら細かい砂を固めた型を使い金属を流し固めた後には鋳型を削って取り出したために鋳型は残らなかったのでしょう。
3000年以上も前にこのような精緻なものが作られていたという驚きもありますが、人々の想いが集中して作り出されたものだったのでしょう。