福島第1原発事故は人災か天災かということは議論になりましたが、ほぼ人災と言えると思うものの確定しているとも言えないでしょう。
その辺りの論点を整理する意味でも、この松本三和夫さんが提唱されている「構造災」という考え方は有効かもしれません。
松本さんは理系の研究者ではなく、社会学出身の方ですが、2002年にこの「構造災」というものを発表されています。
もちろん、その当時は福島原発事故などはまだ想定もされていないものだったわけですが、これが起きた時には松本さんはこれが「構造災」そのものであるということに気付かれたわけです。
構造災とは、簡単にいうと「科学と技術と社会の間の界面(インターフェイス)で起こる災害」を示します。
福島原発事故は科学の失敗だけの原因で起きたとは言えません。
炉心溶融がまったく予測もできなかったのであれば科学の失敗と言えるものの、実際は事故当日にはその可能性が指摘されています。
また、原子炉の設計の失敗によるというのであれば技術の失敗と言うべきですが同様の原発はいくつもあったものの事故に至ったのは福島だけでした。
原発使用者側の社会的問題かと言ってもそう簡単に言い切れるものでもないようです。
このように、構造災とは科学と技術と社会をつなぐ複数のチャンネルの制度設計の在り方や、そこに登場する複数の異質な主体のおりなす機能不全によるものであるということです。
構造災であることを見落としたまま、科学や技術ばかりの完全を追い求めても問題の再発は防げないというものです。
これまでの他の事故の例でも、構造的な制度の欠陥というものが見過ごされたまま対症療法的な対応のみで済ませようとして失敗を再発する例が多いということです。
1先例が間違っていても先例を踏襲して問題を温存する
2系の複雑性と相互依存性が問題を増幅する
3小集団の非公式の規範が公式の規範を長期にわたって空洞化する
4問題の対応においてその場限りの想定による対症療法が増殖する
5責任の所在を不明瞭にする秘密主義がセクターを問わず連鎖する
特に「秘密主義」が蔓延することが多く、それが構造の変革という抜本対策の邪魔をするようです。
著者が挙げている例のなかで、「技術のロックイン」というのは興味深い概念でした。
どの分野でも最初の頃に並立していた数種の技術の中から一つに絞られて、それが発展していくという経過をたどることが多いのですが、それはその技術が特に優れていたということを意味せず、そうでない場合も往々にしてあるようです。
例えば、原発の軽水炉に絞られていく過程、ビデオ装置がVHSに決まっていく過程というものは必ずしも対抗する技術が劣っていることを意味しません。
しかし、一度優勢になってしまえばその周辺技術もすべてそれに揃えた発展を遂げるためにそちらが圧倒するということになります。これを「ロックイン」と呼ぶそうですが、それのために実際は大きな損失を全体としてしてしまうこともあるそうです。
構造災の例として他に挙げられているものは、あまり馴染みのないものもありました。
1937年12月に最新鋭駆逐艦のタービン翼の折損という事故が発生しました。この原因はそれまでの経験からタービンの翼車振動と片付けられました。しかし、対米開戦の直前ということもありその対応は大変なものだったようです。
しかし、実はその事故の原因はそれではなくて複雑な翼の共振振動によるものだったそうです。けれどもそのことを公にすることもなく有耶無耶のまま済まされました。
原子力発電の開発当初からの政財界、学界の動きというものもまさに構造災を起こすそのものだったようです。政財界の強烈な原発開発の意思に対し、学界が科学的な観点から意見を述べることはできず、せいぜい原子力科学専攻の学生を養成するだけの役割しかできなくなりました。その結果、科学のしっかりとした裏付けなしに原発技術は進んでしまったようです。
まさに今進みつつある構造災は高レベル廃棄物処理法の選択です。科学の裏付けなしに政治の都合だけで金で片付ける地層処分というもので進もうとしています。
誰もが考えたくないことなのでしょうが、問題が増殖し続けているようです。
科学や技術だけでは片付かない問題が「構造災」というものなのでしょう。とはいえ、一番の問題点は政治にあるように見えます。
ということは、政治家を選ぶ一般の国民にそれを解決すべき責任があるということなのでしょうが、無理ですね。
重苦しい問題提起ですが、どう解決するのか複雑で困難なものでしょう。