爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「鮭鱸鱈鮪 食べる魚の未来」ポール・グリーンバーグ著

クロマグロやサンマ、ウナギ等々、日本の漁業の将来を不安視させるような出来事が続発していますが、漁業資源の枯渇という点では欧米の方が先に問題化しているようです。

タラやサケなどは乱獲でほとんど資源枯渇させたということをやっています。

 

この本は漁業資源の問題を扱ったもので、養殖資源についても提言をしているということから、私が最近非常に興味を持っている分野の書籍なのですが、いかにも読みにくいと感じさせる本でした。

 

どうもアメリカなどの自然科学とくに環境分野の専門家やジャーナリストが書く本というのは、非常にエピソードの羅列が過剰なように感じますが、本書もその通りの作りになっています。

最後に、「まとめ」というコーナーが設けられていますが、「ここだけ読めば十分」と感じさせるものでした。

347ページのハードカバー、定価2400円+税という本のほとんどは余計。

まあ、購入した本ではなく図書館で借りて読んだ本なのであまり文句も言えませんが。

「まとめ」だけの小冊子にして500円ほどであれば買って読む価値は十分にあります。

 

しかし、中身はかなり重要な事が書いてありますので、まとめのところから紹介しておきます。

 

漁業資源をできるだけ守り再生していかなければならないのですが、そのための提言として次のようなことを挙げています。

1漁業活動の全面削減

 全世界の漁船の数は持続的な漁業に必要な数の2倍あるそうです。

 各国は漁業振興策として漁船に対し補助金を出していますが、それがまったく逆に作用しています。

2重要な区域を禁漁区とすること

 漁業資源を回復させるためには、繁殖に適する海域を禁漁としなければなりません。

3管理不能な魚種には国際的な保護を

 禁漁区設定程度の方策では回復できないような魚種は捕るべきではないという、極めて当然の提言です。

 おそらくニホンウナギもその中に入るのでしょう。

食物連鎖の底辺を守ること

 養殖が世界的にブームとなっていますが、その飼料にはカタクチイワシ、マイワシ、ニシンなどの魚が使われています。

 大型の高級魚はその重要性から資源調査や環境についても調べられていますが、餌となる小型魚などはあまり知られないまま大量に捕獲されています。これは根底から漁業を破壊する可能性があることです。

 

そして、養殖漁業に対しての提言もされています。

1効率が良いこと

 餌の量に対してあまりにも魚体の成長が遅いものは養殖すべきではありません。

クロマグロなどは20分の1程度の効率です。餌を大量に消費してしまいます。

2野生の系に対して破壊的でないこと

 サケでは野生種と近縁の系統を養殖すると野生群に対して悪影響が出るということです。そのような養殖は危険です。

3数を限ること

 飼育法が確立された種だけで止めるべきです。なんでも養殖というのは悪影響ばかり出てきます。

4順応性があること

 魚を餌としなくても海藻や大豆を代替できるサケなどは順応性が高いものです。

5混合養殖が可能なこと

 陸上の農畜産業でも単種栽培は病気に弱く環境へ悪影響が出ます。養殖でも他種混合が必要です。

天然魚を捕る漁業というものは相当の制限が必要なようです。

それとともに、養殖漁業もなんでもできるわけではなく、規制すべきものなのでしょう。

今の日本の水産行政ではどちらも無理のようですが。

 

鮭鱸鱈鮪 食べる魚の未来: 最後に残った天然食料資源と養殖漁業への提言

鮭鱸鱈鮪 食べる魚の未来: 最後に残った天然食料資源と養殖漁業への提言

 

 

「英国流立身出世と教育」小池滋著

「身を立て名を挙げ」と言えば「仰げば尊し」の一節とすぐ分かるのはある程度の年齢の人だけで、最近はあまり卒業式でも歌われなくなっているとか。

そいうった「立身出世」というものが最近の先生方に不評だからではないかということですがどうでしょう。

 

しかし、身分制度が崩れて誰でも努力しさえすればそれ相応の地位に就くことができるというのは、たしかに近代の特色です。

日本で言えば明治以降ですが、実は仰げば尊しの本家のイギリスでもそういった社会の変化が日本に先駆けて起きていました。

とはいえ、日本のように明治維新身分制度もガタガタに崩れた上での変化ならまだ違ったのでしょうが、イギリスはしっかりと貴族制度が残った上での変化でした。

労働者階級やその少し上の中産階級出身者は、多少の勉学を身に着けてもなかなか出世というわけにはいかず、運良く入り込んでも様々な壁を意識せざるを得ない社会でした。

そういった社会の歪を、ディケンズ、ブロンテ姉妹、サッカレー、ロレンスなどが小説にしています。

 

本書は、教育は何のために行うのかという点も含め、イギリス文学者の著者が一億総中流の夢に浮かれる(本書は1992年の出版です)日本人に問いかけるというものです。

 

18世紀までのイギリスでは、教育というものは特権階級のみのものでした。

一部の王侯貴族は一流の教師を個人で雇い家庭で子女を教育しましたし、学校へ通わせる場合もオクスフォードとケンブリッジの2大学、そしてそこに入るための教育を行うパブリックスクールに限られていました。

そこでは、神学や古典など、実社会には全く役に立たないことを教えられ、そういったことを知っているということが、特権階級の証でもありました。

 

しかし、産業革命で社会の構造が変わっていくと中流階級と呼ばれる人々が増加していき、彼らを教育する機関というものが必要になってきます。

こういった新興の寄宿学校というものが出現していくのですが、最初は国の監督や規制というものも無く、その教育内容や環境も劣悪というものが多かったようです。

 

なお、「ギニー」という通貨単位がありますが、これはこういった学校や教師に対する謝礼として払うためにできたという話です。

つまり、1.05ポンドにあたる1ギニーというものは、おおっぴらにチップを取ることができなかったこういった聖職者に、元々5%のプラスアルファが含まれているギニーで渡すという目的があったのだということです。

 

寄宿学校よりさらに貧しい人向けの「慈善学校」というものもあったのですが、そういったところの環境はさらに劣悪。そしてその教師に対する報酬も低額だったのです。

シャーロット・ブロンテジェーン・エアはこういった状況を描いているということですが、読んだことが無いのでよくは知りません。

 

ブロンテ姉妹の父親は貧しい牧師だったのですが、その娘という立場では当時はほとんどまともに就ける職業というものはなく、こういった学校の教師か富裕階級の家の家庭教師くらいしかなかったのです。

いずれも尊敬されるには程遠いほどの職業であり、収入も低く、またそこに入り込むとほとんど結婚相手も見つからないというものだったようです。

 

イギリスでは政財界の中枢にオックスブリッジ以外の大学出身者が進出できるようになったのはようやく第2次大戦後になってからだったようです。

そのような状況下での立身出世のための教育というものがどういうものか、身分制度というものの深い闇というものが感じられます。

 

英国流立身出世と教育 (岩波新書)

英国流立身出世と教育 (岩波新書)

 

 

「”日本スゴイ”のディストピア」早川タダノリ著

21世紀に入って以来「世界が尊敬する日本人」とか「本当はスゴイ日本」などと題されたおびただしい数の書籍が刊行されています。

最近はテレビ番組にもそういった類のものがはびこっており、辟易する思いですが、実はかつても「日本スゴイ」という本が次々と出版されていた時代がありました。

 

それは満州事変(昭和6年)の後、太平洋戦争が終わるまでの時期であり、愛国本の洪水とも言えるようなものだったそうです。

それらは、「日本文化論」の範疇にも入るものですが、和辻哲郎谷崎潤一郎などの名著と呼べるものとは別に、今となっては歴史のゴミ箱に入れられているようなクズ本も多数出版されました。

 

本書では、古典的名著というものは除外し、あくまでもくだらないクズ本だけを「厳選して」収録したということです。

そういった愛国本というものは、「日本精神」や「日本主義」といったものを唱え、それを社会や生活のあらゆる場面に入り込ませるように書かれていました。

そして、その日本精神本ブームのわずか数年後には日中戦争が本格化し、国民精神総動員運動が激化し、総力戦体制となっていきました。

これらの愛国本もそのような動きの先触れであり、それに加担したと言えそうです。

 

こういった「日本スゴイ」本の原型とも言えるものが1933年昭和8年に新潮社から発行された月刊総合雑誌「日の出」の一連の特別付録読み物だそうです。

国際連盟脱退をうけ、「国難来たる」「日本はまったく孤立無援となった」と危機感を煽り、しかし「日本の偉さはここだ」と鼓舞する記事を連ね、「何たる感激の書だ。国民一人残らず読め」と偉そうな広告文まで載せています。

この「日本の偉さはここだ」という記事など、最近の「日本スゴイ」番組のパターンとも酷似しているとか。

 

総力戦体制となってからは、兵士として駆り出された成年男性の代わりに少年や女性を工場などに動員しようという体制も強まりました。

そういった青少年や女性向けの書籍というものも多数出版されたそうです。

傑作なのが、今となっては経歴もその後も何も分からない山口県の女性が書いた文章で、

「日本国民はたくさんの炭俵をピラミッド状に積み上げたようなもので、これを一俵でも引き抜くとわけもなく崩れます」と団結を呼びかけたものです。

これに対し、著者は「途中を抜くから崩れるから、頂上の俵から抜いていけば良い」と面白い指摘をしています。

 

このような精神主義だけの言説はきちんと物量と補給に支えられたアメリカの軍略にあっさりと蹴散らされ、こういった文章を書いていた人々はその後どうしたのかも分かりません。おそらくは、戦後すぐに態度を改め?民主主義に邁進したのでしょう。

 

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

 

 著者ははっきりとは語っていませんが、戦前のこういった風潮と似ている現在というものが何を示しているのか、すこし考えさせられるところです。

「すでに戦前だ」とはよく言われるところなのですが。

 

 

「なくなりそうな世界のことば」吉岡乾著 イラスト西淑

世界には7000の言語があるそうです。

その中で多くの人が母語としている「大きな言葉」には中国語普通話(9億人)、英語3億7000万人、日本語も世界9位で1億2800万人といった言葉がありますが、一方「小さな言葉」はごく少数の人が話すだけで、それもどんどんと消えつつあります。

 

この本はそのような「小さな言葉」について、それぞれの専門研究者にその言語の中の一つの言葉を選んでもらい、それに西さんが味のあるイラストを付けて紹介するというものです。

それほど多くのことを紹介できるわけではありませんので、一言語あたり見開き2ページ、左のページに一つの言葉とそれを表すイラスト、右のページで言語と話す民族を紹介といったものです。

なお、右ページの欄外に数字が書いてあるのが何かと思えば、現在の話者の数でした。

最初の方はそれでも数十万だったのですが、最後の方に行くとどんどんと少なくなってきて、カムチャツカに住むイテリメン人のイテリメン語は10人、アイヌ語は5人、そして一番最後に載せられているインドのアンダマン諸島に住む人々の話す大アンダマン混成語は最後の話者が2010年に亡くなったので、「0人」でした。

 

最初に紹介された言語の分布地図がありますが、多いのはパキスタン奥地、ネパールから中国奥地、太平洋諸島、そして東シベリアからサハリン、カムチャツカといったところのようです。

言語が独自の発展を遂げるためには周囲から独立した文化が維持されることが必要でしょうから、あまり大平原に大帝国といったところには残りにくいのでしょうか。

 

それにしても、一つ一つの言葉に味のあること。

そして、それにふさわしいイラストがまた楽しめます。

 

モンゴル語族に含まれる、ブリヤート人の話すブリヤート語はそれでもまだ30万人程度の人が話すそうです。

やはり遊牧の伝統がありますので、その言葉も「セルゲ」意味は「馬つなぎの杭」だそうです。

 

パキスタンアフガニスタンに住むワヒー人の話すワヒー語は、イラン語のパミール語派に属するそうですが、やはり牧畜を主とする民族のために、それに関する言葉が充実しているそうです。

「プルデュユーヴン」という言葉は「家畜に乳を出す気にさせる」という動詞だそうです。

 

カムチャツカ半島北部に住むコリャーク人の話すコリャーク語は2000人ほどしか話者がいません。

ここで選ばれた言葉は「ウィヌクジュガージュトゥグル」で、意味は「7月末から8月初めに種牡トナカイが角を磨くときの暑さ」だそうです。

真冬には氷点下60℃にもなるという地方でも真夏にはひどく暑くなることがあるそうです。そのときのために一つの言葉をあてています。

 

紹介された50の言葉のうち、ただひとつ知っていたことが「イヨマンテ

アイヌ語で「熊祭」とか「熊送り儀礼」といった意味の言葉です。

アイヌ民族は今でも10万人ほど居るのですが、アイヌ語を流暢に話せる人はもう5人以下だそうです。

元々は北海道を中心に本州東北部、サハリン、千島列島にも広がっていたのですが、周辺部は早くに消滅しました。

アイヌ語の系統は不明、4人称と呼ばれる特殊な人称概念を持つそうです。

 

日本語という大言語ですら、英語に飲み込まれる危険性が言われる時代ですので、各地の少数民族の言葉が消滅するのは仕方のないことかもしれませんが、一つ一つの言葉の味わいというものも永久に失われてしまうのかと思うと何かやりきれない思いもします。

 

なくなりそうな世界のことば

なくなりそうな世界のことば

 

 

「ほんとうの”食の安全”を考える ゼロリスクという幻想」畝山智香子著

国立医薬品食品衛生研究所の室長をしておられる、畝山智香子さんはネット上で「食品安全衛生ブログ」という活動もされており、大変参考にさせていただいています。

以前に近著の「健康食品のことがよくわかる本」という本を読みその書評は書いています。

sohujojo.hatenablog.com

今回読んだ「ほんとうの食の安全を考える」という本は少し以前の出版ですが、食の安全という問題全般を扱ったものと言えます。

ただし、断り書きが書かれているように、食品の安全性では一番大きなリスクと言える「微生物による食中毒」は専門外ということでこの本では触れていません。

 

また上記の本でも感じたのですが、非常に正確な記述であるもののやや専門的過ぎて素人には少し読みづらいかもしれません。

 

本書内容は、

農薬や添加物の安全基準やその基準値の考え方について。

発がん物質のリスクをどう考えるか。

食品のリスク分析はどのように行われるか。

食品の有効性はどう評価されるか。

そして、終章に「健康的な食生活を送るために科学リテラシーを育む」とされています。

 

 食品添加物や農薬の食品への残留値を評価する安全基準に「一日許容摂取量」(ADI)というものがありますが、この数値の設定方法が詳細に説明されています。

マウスやラット、ウサギなどにその物質を与えて、体重の増加が抑制された最小量のうち、一番低い値をさらに安全係数100で割ったものをADIとするというものです。

つまり、ヒトが毎日その値の物質を一生摂取し続けても健康への悪影響が出ないと考えられる値ということです。

 

農薬などの食品残留の許容値はこのADIを基に設定されます。国民栄養調査の結果から、日本人が摂取する食物に含まれるその物質の量を算定し、それがADIの約80%以下に留まるようにするというものです。

 

したがって、こういった残留基準の値を超えたからと言ってそれを食べるとすぐに健康被害が出るとは考えられません。

このあたり、誤解している人も多いようで残留基準を何倍超えた食品が出回ったというとそれを食べるとすぐに被害が出るように言うこともあるようです。

 

なお、このような「残留基準値」が定められるのは、食品添加物や農薬と言った純物質のものであり、天然の食品には定められていません。

しかし、それは「天然食品は安全」ということを意味してはおらず、まったく逆です。

例えばタマネギには身体に影響を与える物質が入っていますので、それを大量に摂取すると健康被害が出ます。もしもタマネギが食品添加物だとしたら、とても認可されないレベルのものです。

ジャガイモに含まれるソラニンなどといったアルカロイド配糖体も同様です。

 

「発がん性」という言葉にはどうも人は異常に反応してしまうようで、発がん性物質であるというとほんの少しでも食品には入っていないことを求めるようです。

国際がん研究機関(IARC)が様々な物質の発がん性を評価した情報が出ると大騒ぎになります。

しかし、このような物質でも発がん性の強弱というものはあり、微量であれば影響の出ないものもあります。

臭素酸カリウムには発がん性があるのでパンに使わせないという要求もありますが、逆にそれを使わないためにパンがカビた場合のカビが作り出す「カビ毒」という発がん性物質ははるかに強力です。

カビ毒の危険性を無視して薬剤の毒性のみを問題視するのはやはり科学の誤用というものです。

 

2009年にイギリスの食品基準庁(FSA)が、「オーガニック食品」(いわゆる有機食品)の栄養価や健康への影響は通常食品と違いがないという報告を発表したのですが、それに対して有機農業推進団体が抗議をするといった騒動が起きました。

政府機関や研究者はそういった情報発信を他にもしているのですが、有機農業推進者たちはオーガニック産品が優れているとか農薬が危険といった宣伝をしています。

メディアにもそういった主張のほうがよく取り上げられます。

健康にとって重要なのはオーガニックかどうかより多様な野菜や果物などをバランスよく取ることであり、「オーガニックしか食べない」といった食生活はかえって有害であることがあります。

どのような情報が有益かということを判断する科学リテラシーを身につけることが重要ということです。

 

ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想(DOJIN選書28)

ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想(DOJIN選書28)

 

 

 

 

「河童よ、きみは誰なのだ」大野芳著

著者の大野さんは1975年に河童を愛好する団体「かっぱ村」を立ち上げ、河童を見たという話を全国に尋ねて回るということをしている方です。

 

本書も前半は全国各地に河童の目撃談を集めた情景を書かれているのですが、途中からは河童の歴史に踏み込み、さまざまな河童伝説の成因を推論するという方向に行ってしまいます。

 

ちなみに、この本が書かれたのはかっぱ村成立より25年経った頃のことですが、その時までは実際に河童を目撃はできなかったようです。

それから18年経ちますが、やはり今でもその姿は捉えられていないのでしょう。

 

河童を見たという人が多い地方はあるようです。

岩手県遠野市周辺や九州各地には現在でも実際に見たと言い張る人がいます。

しかし、それを確かめようと出かけた人には姿を見せてくれません。

 

今の日本人が河童と聞いて思い浮かべるような、10歳の子供くらいの背丈で頭に皿、背中に甲羅等々といった図は、実は1712年に寺島良安が著した「和漢三才図会」が最初のようです。

それ以前には河童といってもその姿は別のものだったとか。

もちろん、古代から河童のような存在というものは伝説に残っていますが、それは実は被征服民や賎民などであったかもしれないようです。

彼らを差別する意識が河童につながっていたのかもしれません。

 

江戸時代の江戸にも河童伝説が存在するところがあるのですが、これも地方から集まった人々が川筋に住んでいたのを河童と見なしたと考えれば納得できます。

また、河原で営業していた売春婦を河童と呼ぶこともあったとか。

 

九州には河童の手と称するものが保存されているところが何箇所もあるようですが、どうもその手は猿のもののようです。

猿と河童とは違うもののようでかなり似通った存在だったということです。

西遊記での孫悟空沙悟浄はまさにそれを表しています。

 

河童をロマンと捉えるか、被差別者を反映した歴史と見るか、いろいろありそうなところです。

 

 

「この世界を変える方法」内海聡著

「日本は100%奴隷国家だ」という文句にひかれて読んでみましたが、本書のあちこちに溢れる毒気にあてられっぱなしになりました。

 

陰謀論と科学的根拠無視の言いたい放題ですが、中にはうなずける部分も散見されるもので、すぐに放り出すということもなく読み終えてしまいました。

 

著者は自ら「キチ◯イ医者」と名乗り、ブログやあちこちで問題発言を繰り返している人のようです。

著書も数々出版しているようですが、まああまり読んでみようとは思えません。

 

政財界の首脳のほとんどが外国ルーツであり、日本のための施策をしていないとか、あらゆる医学は不要であり病気にならない生き方をすれば良いとかいったトンデモ論はさておき、中でいくつか同意できる点だけを紹介しておきます。

 

中央銀行制度はほとんどの国が採用していますが、これが金融資本の世界制覇の手段となっています。

中央銀行がない国は現在ではイラン、スーダンキューバリビアハンガリーアイスランドの6カ国ですが、かつてはそうであったイラクアフガニスタン、シリアは滅ぼされ、北朝鮮も風前の灯火になっています。

 

経済を支えているマネーシステムというものは壮大な幻想に過ぎない。

国賊の筆頭である竹中平蔵を中心に大企業の奴隷化にする政策が進められ、小泉・安倍が画策したものだ。

日本の政治家や官僚たちは日米合同委員会を通してアメリカに完全支配されている。

安倍だけが国賊ではない。麻生太郎をはじめ国賊政治家はあまた存在する。

 

この辺は深く同意します。

 

アメリカの基地はすべて撤去。アメリカとの集団自衛権なども廃棄。ただし自衛はすべて自国で行う。

 

毒気に惑わされ読まないというのも少しもったいないかもという本でした。

 

99%の人に伝えたいこの世界を変える方法

99%の人に伝えたいこの世界を変える方法