爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「崩れゆく世界 生き延びる知恵」副島隆彦、佐藤優著

鋭い論客として知られる副島隆彦さんと佐藤優さんが世界情勢や国内政治について対談し、2015年に出版した本です。

当時はまだ安倍政治をもてはやす風潮でしたが、その欺瞞や虚構を厳しく批判しています。

またウクライナ情勢では親ロシアのヤヌコヴィッチ大統領を追い出す政変が起き親米派が政権を取ったばかりのところで、その後は大きな戦争になるだろうと予告していますが、まさにその通りとなりました。

他にもイスラム国情勢やアメリカの世界政策まで世界・日本の状況について語っています。

 

それは世間一般に言われていることとはかなり違うものですが、実は私がその頃からこのブログで書いていたことと相当共通する部分が多いと感じます。

しかし誓って言いますが私はこの本に触れたのは今回が最初で、当時の私の観点と類似しているといっても決してこの本に影響されたわけではないので念を押しておきます。

 

当時はアベノミクスをはじめとし安倍政治が日本を変えているといって喜ぶような状況でした。

しかしお二人はアベノミクス反知性主義が生んだ現代の錬金術と一刀両断。

円安を喜ぶ日本人は愚かと切り捨て、安倍も普通の民主主義国とは波長が合わずロシアや中国などの方が似合っているとしています。

 

安倍は集団的自衛権を行使できるようにすると主張していましたが、実際にはアメリカは日本を敗戦国としてしか見ておらず、そのような相手と集団的自衛権など共同で持つことはあり得ないというのが本心だとしています。

実際にはアメリカは高価な兵器を日本に買わせて、戦争ともなれば前面に自衛隊を弾除けにするだけにしか使うつもりはないということです。

 

安倍晋三は祖父岸の頃から統一教会一派だというのも正解でしょう。

安倍の「美しい国」というスローガンは実は統一教会の初代日本支部長だった久保木修己という人物の書いた本から取ったものだということです。

 

ウクライナ問題に関しては佐藤さんが専門家で非常に詳しくこれまでの経緯を説明していました。

やはりウクライナ西部と東南部、クリミアは全く別の状況であり、ロシア人の多い地域を圧迫することになったのが2014年の政変以来のことで、その勢力にはネオナチという集団がいるもの間違いないようです。

そのウクライナのネオナチ政権を操っていたのがアメリカの当時のヴィクトリア・ヌーランド国務次官補でした。

アメリカのその地域担当の国務次官補というのは国の首脳に命令ができるほどの権力があり、日本で鳩山政権をつぶしたのも当時のアジア太平洋担当の国務次官補、カート・キャンベルだったのですが、それと同じ構造がウクライナでもありました。

なお、この政変を起こすことができたのは、ちょうどロシアがソチオリンピック開催でそちらに秘密警察要員を集中させたためにウクライナが手薄となったからだそうです。

 

経済に関する説明も目からうろこというものでした。

日本政府だけでなく世界中に広まっているのが「インフレ率2%の安定成長」なる言葉ですが、これはアメリカのマネタリストと呼ばれる連中がリーマンショックなどの金融危機に対処してアメリカの覇権を守るために作り出した理論だということです。

彼らは「経済成長があるから景気対策をする」という正常な経済学的発想を逆転させ、「量的緩和をすれば適度なインフレが生じ景気が回復する」としてしまいました。

実体経済が改善すれば株価が上昇しますが、株価を上昇させたからといって実体経済が改善するという担保はどこにもない、というのが本当のところです。

マネーサプライを大胆な金融緩和で飛躍的に増加させても、産業構造が変わらない限り、その資金は国外に流出するか、国内で株と土地を値上がりさせるだけになります。

 

まさにアベノミクスの本質をついた意見でしょう。

 

しかしこのような本があっても誰も目を止めることもなく欺瞞の政治が続いてしまったのでした。

 

 

「内田樹の研究室」より「ポスト日米安保の時代」

久しぶりに内田樹さんのブログ「研究室」からです。

題が「ポスト日米安保の時代」

blog.tatsuru.comいよいよ「もしトラ」が迫ってきました。

これでどうなるのか、内田さんがとあるビジネスマンの会合で話をしたそうです。

 

トランプが前に大統領だった時にも世界的な安保体制の見直しと言いだしていましたが、それが現実になる可能性(危険性?)も無いわけではありません。

 

アメリカ側から」言い出して、日米安保体制の破棄、在日米軍基地からの撤退ということも「最悪の場合」あり得るということです。

 

もしもそうなったらどうなるか。

日本では政治家も官僚も「日米同盟基軸」ということしか考えてこなかった。

それ以外のことは完全に思考停止でした。

だからどうしようもない。

 

仕方なく自衛隊にすべてお任せとなると、彼らは国家予算の半分よこせ、人数が足りないから徴兵制にするなどと言いだすかもしれません。

 

このような思考停止状態はやはり「日本の病は深い」と言わざるをえないものなのでしょう。

 

 

「死の虫 ツツガムシ病との闘い」小林照幸著

ツツガムシ病という病気の名前はかなり有名なものでしょう。

古代から知られており、遣隋使を派遣した聖徳太子が隋の皇帝に送った国書に「恙無きや」という言葉があったということは有名でしょう。

また「つつがない」という言葉も広く使われていたものでした。

しかし「ツツガムシ病」というものがどういうものかということはあまり普通には知識がないものでしょう。

 

特に新潟や秋田などで頻繁に患者が出てその多くが死亡するという病で治療法もないために恐れられていたというのはさほど昔の話ではありません。

 

このツツガムシ病に挑み続けてきた医師や研究者などは数多く、中にはその調査中に自らが感染し発症して死亡した人も何人もいました。

そういった、ツツガムシ病への挑戦の歴史を綴った本です。

 

米どころと言われる秋田、山形、新潟の各県には大河が流れており、その支流も数多いのですがその地に祠・石碑・地蔵が数多く建立されています。

それらはツツガムシ病で命を落とした人々を慰霊し住民たちが病にかからないように祈るものでした。

 

本書は時代ごとの記述となっており、明治時代から始まります。

稲作が盛んな地域の中にはこの病が頻繁に発生し、中には一家全滅となる例もありました。

病の原因は明らかではなかったものの、見えるか見えないかと言うほどのダニの幼虫に刺されると病気になるということは経験的に分かっていました。

その虫をこの地域では赤虫と呼んでいました。

この虫に刺されると4時間程度で刺された箇所に赤い発疹ができ痛みを覚えます。

そこから進行しないまま単なる虫刺されで終わる人もいたのですが、中には刺された跡が発疹から水疱、さらに膿疱となりかさぶたができてからが本当の恐怖の始まりでした。

全身のリンパ節が腫れて痛み高熱を発し死亡する場合も多かったのです。

医師も刺された跡にダニが残っていることがあるのでそれを掘り出して除去する程度のことしかできませんでした。

 

これに挑む医師も多かったのですが、ドイツから帰国してすぐの北里柴三郎新潟県の依頼を受けて調査したことがありました。

しかし細菌ではないらしいことが分かっただけで、マラリア原虫のような病原体かもしれないという程度のことしか分かりませんでした。

 

東大医学部も本格的に調査に当たります。

衛生学教室の緒方正規を中心に多くの研究者と機材を投入し大掛かりなものでした。

野ネズミに寄生するダニを発見しそれが発病に関わるということは分かったものの、それがもたらす病原体が何かということの解明は難しいものでした。

 

大正時代に入ってもまだ真の病原体の解明は難しいものでした。

東大からは衛生学の緒方に加え、病理学教授の長与又郎も調査を始めます。

銀時計組と言われた成績優秀者をそろえての参戦でした。

しかし現地での調査は目に見えるかぎりぎりの微細なダニが相手であり、防護服を着て湿地を這いまわるという過酷なものでした。

当時は病原性があると思われる微生物は、原虫類、真菌類、細菌類、ウイルスと考えられていました。

素焼きの濾過機を透過した濾過液で感染するかどうかを見たところ濾過液では感染しないためウイルスではないとされましたがそれ以上の進展はありません。

 

同じころ北アメリカでは紅斑熱が問題となっていました。

シカゴ大学のハワード・リケッツはダニの一種により媒介されることを突き止め、さらに患者の血液からこれまで医学界では報告されていない、桿状体の微生物が見られることを発見しました。

さらに発疹チフスの病原体もこの種の微生物ではないかと考えました。

これを媒介するのはシラミの一種であることまで突き止めたのですが、自身がその病原体に感染し39歳で死亡しました。

同様にドイツのスタニスラウス・フォン・ブロワセックもこの桿状の微生物が発疹チフスの病原体ではないかと考えましたが、ブロワセックも発疹チフスに感染し死亡しました。彼も39歳でした。

ブロワセックの遺志を継ぎその病原体の特定をしたのがダ・ロシャ・リマでした。

それは原虫、真菌、細菌、ウイルスのいずれとも異なる新たな微生物でした。

リマは殉職した二人の研究者に敬意を払い、この微生物をリケッチア・ブロワツェッキーと命名しました。

この発見は日本のツツガムシ病にも大きな影響を与えることとなります。

 

リケッチアの生態からツツガムシ病を見ていくと判然とすることも多く、その方向での研究が進みますが、研究に参加する人々も増えたため競争が激化し、発表の優先権、命名権などでトラブルが頻発しますし、リケッチアであることが判明した後の方が研究室で誤って感染し死亡する例が増えてしまいます。

 

第二次大戦後に進駐してきたアメリカ軍が富士山山麓で演習を行った際、27名が発疹と発熱を起こします。

診察によってこれもツツガムシ病であることが判明しました。

劇症となる例は新潟や秋田に駆られていたため注目されていませんでしたが、全国各地に別種のツツガムシによる病気があることも分かってきました。

それは新潟などのアカツツガムシではなく別種のタテツツガムシなどによるもので、リケッチアの種も異なり症状も軽いものでしたが、やはり同じような病気だったことが分かりました。

 

またこの時期に盛んになった抗生物質開発ですが、最初のペニシリン、ついでストレプトマイシンまではリケッチアには効果が無かったものの、次いで発見されたクロラムフェニコールがリケッチア類に効果があることが見出されました。

さらにその後発見されたテトラサイクリンは非常に効果が高いことが判明し、ツツガムシ病の治療の標準法となります。

ただし、ツツガムシ病であることを見逃してしまうと手遅れになることもあります。

 

現在に至り、ツツガムシ病の発生は少なくなりましたが、今だに根絶はされていません。

さらにその病態をよく知らない若い医師も増えたためにツツガムシ病であることの判断が遅れテトラサイクリンなどの投与が遅れた場合には悪化し死亡する例もあります。

まだまだ警戒しなければならないものなのでしょう。

 

 

「鬼平犯科帳(十六)」池波正太郎著

江戸の町では次々と事件が起こり、それを食い止めるための平蔵や火盗改めの苦闘は続きます。

 

「影法師」火付け盗賊改め方同心木村忠吾は同僚吉田藤七の娘おたかとの婚礼を間近に控えていました。

しかしおとなしく婚礼を待つという忠吾ではなく、結婚すれば岡場所に行くこともできなくなると思いその前にもう一度と品川に向かいます。

ところがその途中である盗賊が忠吾の顔を見て後をつけ始めます。

実は忠吾は「さむらい松五郎」という盗賊と瓜二つだということは以前の話にも出てきましたが、そのさむらい松五郎に裏切られ盗んだ金を独り占めされた盗賊が忠吾を見ていきり立ったのでした。

しかしその途上、忠吾は叔父の中山茂兵衛と出会ってしまい、まさか女郎屋に行くとは言えず目黒の父母の墓に参ると嘘をつくのですが、茂兵衛も同行するということになり嫌々ながら寺参りとなります。

それに翻弄されたその盗賊塩井戸の捨八がかえって盗賊改めの密偵に見つかり、結局は一味もろともお縄になるということになります。

そして、最後の場面は火盗改の牢に入れられた盗賊たちがその前から入牢していた本物のさむらい松五郎に会うというところです。

 

「網虫のお吉」お吉は盗賊苅野の九平の一味でしたが、苅野一味がお縄となった時に逃げ延び、その後何も知らない商家の後家として迎えられていました。

しかしそれを火盗改の悪徳同心黒沢勝之助に見つけられ、金ばかりか体まで奪われます。

その場を同心小柳安五郎に見つけられ、そこから火盗改による内偵が進み、黒沢は切腹となります。

 

「白根の万左衛門」この話も引退した盗賊の財産をめぐる一味の争いです。

火盗改の密偵、馬蕗の利平治が町で白根の万左衛門の娘のおせきと配下の沼田の鶴吉を見つけます。彼らをつけて行先を探ると筆師の家に入りますが、そこは万左衛門の盗人宿で万左衛門もその家の中で病に倒れているのでした。

万左衛門は名古屋が本拠の盗賊で40人近い配下を持つ大盗人でしたが年を取りました。

そして次の盗みのためにと取ってある金が千両以上もあったはずですが、そのありかを娘や配下にも内緒にしてありました。

鶴吉とおせきの夫婦はそのありかを万左衛門から聞き出し独り占めしようと狙っていました。

万左衛門はいまわの際に金のありかを告げますがそんなものは嘘っぱち、もうもう一人の息子のためにすべて使ってしまっていました。

しかしそれを聞いた鶴吉たちはおせきを殺し名古屋に向かおうとしたところを火盗改に一網打尽にされます。

 

「火つけ船頭」日本橋小網町の船宿「加賀や」の船頭常吉は火付けの悪癖に取りつかれてしまいました。

何か面白くないことがあると放火をするのですが、もしも捕まれば極刑となります。

しかしどうしてもやってしまおうと夜の街に出かけると火をつけようとした商家にちょうど盗人の一群が盗みに入るところ。常吉はそこに火をつけ火事だ火事だと騒いで盗人たちを追い払います。

その常吉は女房を同じ長屋の住人の浪人西村虎次郎に寝取られますが、その西村が実は先の放火先に押し入っていた盗賊の一味だということが分かり、火盗改に密告の手紙を投げ入れます。

探索を進めた火盗改めによって西村や盗賊一味は捕らえられますが、常吉も放火の罪で処刑されます。

 

「見張りの糸」火盗改密偵の相模の彦十は品川まで出かけた途上で昔の知り合いの稲荷の金太郎という盗賊を見つけます。それをつけた彦十は金太郎田町の大黒屋という茶店にはいったところを確かめます。

彦十は火盗改めに報告しますが、その見張りの場所として目を付けたのがその店の真向かいの仏具屋和泉屋でした。

そしてその和泉屋は京都で盗みを働いていた盗賊が盗みを止めて江戸に移り開いた店でした。

断るわけにもいかない和泉屋は火盗改めに見張り場所を提供します。

しかしそこにちょうど京都奉行所から平蔵の旧知の浦部彦太郎がやってきて、田町の見張り場所にも寄りますが、和泉屋の主人が京都の盗人であることを見抜きます。

 

「霜夜」平蔵が料理屋で兎鍋を食べていると隣の部屋から聞こえてきた声は旧知の男のものでした。

平蔵が若い頃無頼の生活をしていても、剣道修行で高杉道場には通っており、そこで弟分として親しく付き合っていた池田又四郎の声だと直感しました。

平蔵は又四郎をつけますが、その行動には不審な点が多く、声をかけるのはやめておきます。

やはり又四郎は盗賊一味に加わっていたのですが、その妻の妹が盗賊一味から無断で出奔し、江戸の商家に奉公していたところを一味に発見され、殺すか引き込みをさせるかと強要されていたのでした。

そして又四郎はそのことを平蔵に置手紙で知らせ、自らは盗賊一味に切り込み多くを殺したものの自分も死んでしまいます。

 

壮絶な人生を送った人々のことが描かれており、飽きさせません。

 

 

地震相次ぐ、高知と愛媛で震度6弱

昨夜11時過ぎですからもうすっかり眠っていた時間ですが、スマホ緊急地震速報が鳴り響いて目が覚めてしまいました。

熊本地震から8年ということでテレビ番組もあれこれ見たばかりで、あの速報の音は記憶を呼び覚ますものでした。

ほどなくゆさゆさと揺れましたが、この辺では震度3だったようです。

 

しかし高知と愛媛の県境付近では震度6弱の揺れとなりました。

news.yahoo.co.jp九州でも大分は震度5だったようです。

 

このところ全国各地で強めの地震が相次いでいます。

今回の地震南海トラフ地震震源域ということですが、南海トラフ型のプレート境界地震ではなくプレート内部地震だったということで、直接の関係はないと言います全く無関係でもないでしょう。

 

南海トラフ地震ばかりでなく首都圏直下型地震や北海道沖巨大地震などいろいろな予測は出てきますが、次の大地震はどこか。

どうやら地震の活動期に入っているのは間違いなさそうです。

「フリースタイル言語学」川原繁人著

川原さんは言語学その中でも音声学という分野の研究者です。

音声学などといってもほとんど分からない人がほとんどだと思いますが、言葉というものが母音と子音が組み合わさってできており(日本語以外の場合、子音ばかりがつながる言葉もあるようです)、さらに音の中にも共鳴音、阻害音、破裂音などがあるといったことが基本のようです。

そんな研究が何の役に立つのか、といった思いがよぎりますが、それもこの本の中で著者は色々と書いています。

といったような、言語学や音声学など著者の専門分野についていろいろな方向からエッセー風に綴っている本です。

 

実際の生活に密接に関係する部分もあるようで、日本語ラップの問題についてやプリキュラポケモンの登場人物などと音声学の関係、ハッシュドビーフの「ド」についてなど、興味を引くように書かれているだけではなくかなり音声学の根幹に近いようなものを含むということもあるようです。

 

なお、ハッシュドビーフでは日本では「ド」と書きますが、もちろん英語の hashed beefから来ていますが、これは英語では「t」と発音し「d」になることはありません。

played, fried などは「d」と発音されますが、iced, cooked の時は「t」となります。

「d」は有声で「t」は無声です。

なおこの最後の音には母音はつかないのですが、日本語ではどうしても最後に母音をつけることとなります。

それでも「o」をつけて発音しても「ト」となるべきで、「ハッシュドビーフ」ではなく「ハッシュ”ト”ビーフ」とするのが本来の発音に近いはずなのですが。

こういった例はいくつもあるのですが、言語学者としては決して「ハッシュト」と書くべしなどとは言ってはいけないそうです。

そうではなく「どうしてこうなるんだ」ということを観察し分析することを心血を注いでするべきだということです。

 

ラップという音楽がありますが、元は英語圏で起こり流行っていましたが徐々に世界中に広がり日本でも作られています。

しかし2005年頃に「日本語はラップに向いていないのでは」と論争になったそうです。

色々な点について語られたそうですが、中でも「韻を踏みにくい」ということを言う人がいました。

日本語では母音が5つしかなく、しかも言葉が子音で終わることがない。したがって技巧を尽くして音韻を踏むというラップには向かないというものです。

これに対して著者は言語学的に本気で反論したそうです。

 

日本語で「濁点をつける」ということは、無声音を有声化するということになります。

タ行からダ行、カ行からガ行、いずれも口の中の発音の仕方は一緒で、ただ声帯が振動するかどうかが違うだけです。

しかしハ行とバ行は異なり、ハ行では口が大きく開くのに対し、バ行では両唇が閉じます。

これはもともとハ行の発音が違ったためで、元は「パ行」だったそうです。

パ行であればバ行と同様に両唇が閉じますのでタ行やカ行などの原則と一致します。

古代では(著者は歴史言語学は専門ではないのではっきりいつまでとは言えませんが)ハ行はパ行と発音していました。

つまり「卑弥呼」は「ピミコ」と発音していたはずです。

「ひよこ」は「ピヨコ」だったので「ピヨピヨ」鳴く、「ひかり」は「ピカリ」だったので、「ピカピカ」光るといことだったのです。

その発音が「ハ行」に代わりましたが、オノマトぺでは昔の発音が残ったということです。

 

エルデシュ数というのが学者の中で遊ばれているそうです。

ポール・エルデシュというハンガリー出身の著名な数学者がいるのですが、論文を発表するのに非常に多くの共著者を持っており、500人以上いたそうです。

そこで、「自分の共著論文のつながりをたどっていって何回でエルデシュにたどりつけるか」を「エルデシュ数」と呼んで、自分がどれだけ近いかを競うというものです。

例えば、エルデシュと直接の共著があればエルデシュ数1、エルデシュ数1の研究者との共著があれば、エルデシュ数2となります。

本著著者の川原さんはエルデシュ数4ということで、どうだ偉いだろということです。

なお同じような考え方で「ベーコン数」というものも出てきました。

この場合のベーコンとは俳優のケビン・ベーコンで、ベーコンと共演したかどうかを同様に数えていくのだそうです。

芸能界に縁がなければベーコン数ははるか彼方なのですが、川原さんは音声学の講義にゴスペラーズ北山陽一さんが来たおかげでベーコン数が生じ、5となりました。

 

こういったお遊びの話ばかりではなく、巻末で紹介されている、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の人の声を保存する研究というところの話では思わず涙が出ました。

ALS患者は徐々に筋肉が使えなくなり、しゃべることもできなくなります。

その患者さんが話のできるうちにその声の成分を分析して保存し、後からその声を使って話を合成できるようにするというものです。

子どもの小さい若いお母さんがその病気になり、声を保存しておくという活動をしたそうです。

そしてその活動を共に行った大学の学生さんたちもそれに感動し、自分の進路を決めたということもありました。

言語学など何の役にも立たないなどと言うことは全く間違いだということです。

 

巧みな文章で非常に面白く読めました。

 

 

クジラやイルカの漂着は地震の前兆ではない。

様々なトンデモニュースを流してくれるNHK朝の番組ですが、今回のものはまともなものと思いました。

「クジラやイルカの漂着は地震の前兆ではない」というものです。

www3.nhk.or.jp東日本大震災熊本地震能登半島地震などの大きな地震の前にイルカやクジラが海岸に漂着しているのが見つかり、それが地震の前兆ではないかと騒がれるということが起きました。

しかし国立科学博物館がクジライルカの海岸漂着の発生件数をまとめており、それによると「海棲哺乳類の漂着は年間数百件、全国の海岸で発見されている」ということのようです。

 

2011年から2024年まででその件数は3200件あまり、その場所もどこかに偏っているということもなく、全国的に発生しているようです。

 

結局は、何らかの事象をその後に起きる大災害と結び付けて考えてしまう、人間の心理のせいなのでしょう。

 

よく言われているように、「何か(X)が起きたから大災害が起きた」だけを見るのではなく、「Xが起きても大災害が起きなかった」「Xが起きなくても大災害が起きた」「Xが起きず大災害も起きなかった」というすべての場合を検討する必要があるということです。

ただし、やはり大災害というのは人にとって大きな影響を持つものですから、その前後に起きたことも特別に記憶されるという心理もあることは仕方ないことなのでしょう。