爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「歴史修正主義」武井彩佳著

歴史上の事について、これまでの定説をひっくり返すようなことを主張する人々がいます。

ヒットラーは偉かった」とか「ホロコーストなど無かった」とか。

そういった論説を「歴史修正主義」と言います。

この歴史修正主義について、その起源から現状、さらにヨーロッパ各国の法規制の状況などを説明していきます。

なお「はじめに」の項に書かれているように、著者が西洋史が専門のため欧米の状況についてのみ書かれており、日本については扱っていません。

日本では歴史修正主義については歴史家ではなく政治家、ジャーナリスト、一般人が論争の中心となっており、歴史家は関りを持とうとはしていないとのみ書かれています。

 

本書構成は、第1章「近代以降の系譜 ドレフュス事件から第一次世界大戦後まで」、第2章「第二次世界大戦への評価 1950-60年代」、第3章「ホロコースト否定論の勃興 1970-90年代」、第4章「ドイツ 歴史家論争 1986年の問題提起」、第5章「アーヴィング裁判 歴史が被告席に」、第6章「ヨーロッパで進む法規制 何を守ろうとするのか」、第7章「国家が歴史を決めるのか 司法の判断と国民統合」となっています。

ヨーロッパにおいて歴史修正主義は主にユダヤ人をめぐる問題で持ち上がってきたという経過が分かります。

ただし、それ以外の問題については明確な立場をとっているとも言えない部分があり、トルコによるアルメニア人虐殺についてはユダヤホロコーストほど関心を持たないようです。

 

20世紀前半の歴史修正主義者として有名だったのが、アメリカの歴史家ハリー・エルマー・バーンズでした。

初めは歴史社会学者として著作を発表していたのですが、徐々に第一次世界大戦についての歴史修正主義的な主張をするようになり、最後はホロコースト否定に至りました。

第一次世界大戦を引き起こしたのはドイツ以外の国だったという主張はドイツからは支援を受けるようになりました。

第二次大戦後にはバーンズは徐々に陰謀論に近づいていきます。

 

1970年代に入るとホロコースト否定論が力を持ってきます。

アウシュビッツガス室は無かった、とか、ホロコーストの死者600万人は誇張だといった主張です。

欧米ではこれらの言説は歴史修正主義ともみなされず、別に「ホロコースト否定論」とされています。

つまり歴史修正主義ほどの学問的な価値も無いということです。

少なくとも学問としての歴史修正主義は史料の検証ということを手段として取りますが、ホロコースト否定論者たちはそれすら無視します。

科学的な根拠を得ようとする努力も初めから行わず、ただただ史実を歪曲し否定するためだけの理論です。

 

ただし、こういった状況は日本には当てはまらず、「南京虐殺中国共産党の捏造だ」とか「慰安婦は皆娼婦だった」などと言う言説は欧米基準でいけば完全にこの「否定論」の類なのですが、日本ではこれも歴史修正主義と扱われているようです。

 

ホロコースト否定論が1970年代になって現れたのはなぜかと解説されていますが、やはり世代交代で戦争体験者が減少したこと、さらに中東戦争イスラエルが圧倒的優位となったことでユダヤ陰謀論の信奉者が確信を深めたといった要因があるようです。

 

イギリス人の著述家デイヴィッド・アーヴィングは戦争をテーマにした多くの著作で人気を集めていたのですが、ある時点からヒトラーは何も知らなかったなどと主張するようになりました。

これを批判したユダヤ史の専門家リップシュタットに対し、アーヴィングが名誉棄損で訴えたのがアーヴィング裁判と呼ばれたものでした。

イギリスの名誉棄損の裁判では訴えられた側が自説の正しさを証明する責任を負うため、リップシュタットはアーヴィングが実際にホロコースト否定論者である証拠を見せなければなりませんでした。

困難な裁判でしたがリップシュタットは勝利しアーヴィングは巨額の訴訟費用を支払うこととなり破産しました。

 

ヘイトスピーチを禁ずる法律は各国で存在しますが、ナチス復権させるような言動行動を禁ずるという法律はヨーロッパ諸国で顕著です。

イギリスやアメリカは言論の自由を重視する傾向が強く、そういった法律には及び腰です。

特にドイツはナチスを生み出したという責任からか非常に強い規制をかけています。

ロシアはナチスと戦ったという意味では反ナチスですが、ソ連共産主義ナチスと同様の行為を行ったという点では決して認めようとせず、かえってそういった言論を「歴史修正主義」だと批判して取り締まります。

このように、歴史の否定禁止ということを法で行うということは、ロシアや東欧などでは国民統合の手段というだけでなく、国際政治の道具とされています。

そのような歴史認識が国家間の対立を深めることになっています。

 

最後は「歴史の司法化」が思想統制全般の手段へと拡大してしまうことは防がなければならない、その意味での政治・司法・歴史の間のバランスが極めて重要だ、と結ばれています。

 

 

はしか(麻疹)の感染はまだ流行というほどではない。感染症報道の在り方について。

最近はしか(麻疹)の流行を警告するような報道が相次いでいますが、それについて報道の在り方といったものを見直そうという記事がありました。

agora-web.jp医師で医療経済ジャーナリストという森田洋之さんという方が書いたものです。

すでにこの感染については数多くの報道がされていますが、実際には感染者数というものはごくわずかなものです。

煽れるものは煽っておけという姿勢なのでしょうか。

 

実はこういった姿勢は新型コロナウイルス感染の拡大の際も同様だということです。

客観的な感染者数の増加や死亡者数など、本質的な問題ではなく報道側の「時間の経過」(受け手が興味ある間は報道を続ける、飽きれば報道もやめる)によってだけ決まっていたのではないか。

そしてその「感染症の恐怖」からまだ抜けられない人たちがいます。

老人施設の管理者たちがそれであり、いまだにこういった施設の入所者たちは自由な外部との面会や外出が制限されています。

 

これも「感染症の恐怖」を煽りすぎる報道のためではないか、という提言です。

 

そういう一面もあるのでしょうか。

確かに感染症には油断大敵なのでしょうが、それよりも報道側の都合も大きいのかも。

 

「中華を生んだ遊牧民」松下憲一著

中国には中華思想というものがあります。

しかしその「中華」という言葉が表すものは変化してきました。

漢代の「中華」と唐代の「中華」とはかなり異なるものです。

本書冒頭に掲載された、唐代の女楽士の練習風景を描いた「宮楽図」という絵は今は台北故宮博物院に収められているものですが、そこの事物を見ていくと様々な点に気づきます。

椅子に腰かけた女性たちがテーブルを囲んで琴や琵琶などの楽器を演奏しており、テーブルの下には犬がうずくまっています。

一見、典型的な中華の上流社会の風俗に見えます。

しかし、漢代の中華世界には無かったものが多数含まれています。

イスとテーブル、胡琵琶、ペットとしての犬、女性たちの化粧と服装。

こういったものが中華世界に流入してきたのは、実に五胡十六国と言われる隋唐時代に先行する時代でした。

その中心勢力でもあった、鮮卑拓跋部と言われる民族の歴史と活躍を見ていくことで、その時代に大きく変わっていった中国の様子も見ることができます。

なお、隋唐時代はこのような北方遊牧民の影響を受けているため、そこから様々な知識を受け取った日本も随所にそれが見られます。

均田制というものは北魏に始まったものですし、平城京平安京の構造も北魏の都洛陽の基本形から継承されたものです。

 

中国北方の遊牧民では匈奴が有名ですが、他にもいた諸民族は圧迫され移動しました。

その中で東方に移動したのが鮮卑でした。

そして匈奴が紀元一世紀頃に衰えた後に登場してきたのが鮮卑でした。

その民族はモンゴル系かトルコ系かということを聞く人がいますが、そのような民族ではなかったようで、様々な系統の人々が集まった政治的連合体が鮮卑だったようです。

そのため、鮮卑遊牧民族と呼ぶのは適当ではなく、「遊牧集団」というのがふさわしいようです。

 

後漢の滅亡以降、三国時代から晋にかけて中原が乱れると北方から遊牧民が徐々に南下し国を建てていきます。

そして晋が滅亡して国を建てたのが匈奴出身の劉淵であり、その後匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五つの胡族が次々と国を建てたのが五胡十六国時代でした。

中でも鮮卑の建てた北魏が最も栄えました。

 

北魏は五世紀の第三代太武帝の時に華北統一を果たし、中華世界の半分を手に入れました。

多くの漢人も仕えますが、遊牧民の文化や制度も残しながら漢化も進めます。

しかし風俗では重要な点も残しており、「子貴母死」という制度は中華には見られなかったものです。

これは皇帝の後継者として決定した皇子の生母は死ななければならないというもので、遊牧民が後継者の母方の影響力を削ぐために行ってきた風習でした。

また、レビレートと呼ばれるのは亡くなった皇帝の王妃などを後継者がそのまま受け継ぐというもので、中華の風習では全く受け入れられないものでした。

そのため、漢代に匈奴に嫁した王昭君などもそれに苦悩したのですが、これも厳しい生活を強いられていた遊牧民の生活から来たものでした。

 

北魏が安定したことを示そうと、国史編纂という事業が為されたのですが、それを実施した漢人の宰相崔浩などでした。

しかし出来上がった国書を石碑に刻み公開したところ鮮卑由来の王族や貴族たちが憤慨し国史事件というものが起き、崔浩たちは処刑されてしまいました。

文化的な衝突というものは頻発したようです。

 

その後、孝文帝の時には北魏が大きく「中華王朝」として変化していきました。

孝文帝の治世の時に均田制や三長制という、その後の中国王朝に長く受け継がれる制度も始められました。

漢化政策が取られたと言われ、胡語、胡服が禁じられたと言われます。

 

孝文帝の頃に都も洛陽に建設され、そこに遷都されます。

一方、北方の故地には六鎮と呼ばれる特別行政区が置かれますが、そこにはあまり高位の人々は赴任せず、中級以下の人々が派遣されました。

そして彼らの中から出たのが北周・隋・唐の建国者たちだったのです。

北周を建てた宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏すべてが六鎮の中の武川という地区に由来するそうです。

そのためか、隋でも唐でもレビレードと呼ばれる先代の王妃などの継承が行われていました。

 

中国の歴史と伝統と言いますが、やはり五胡十六国から隋唐にかけての時代に大きく変化があったようです。

 

 

世界的なワインの生産過剰、オーストラリアで農家がブドウの木を引き抜いている

ワインが世界的に生産過剰になっており、オーストラリアでは多くの農家が生産継続をあきらめブドウの木を引き抜いているというニュースです。

news.yahoo.co.jpかつて勤めていた会社がワインの製造販売もやっていたため、今でもワインを飲むことが多いのですが、日本ではまだまだワインの消費量は少ないものです。

 

しかし世界的にもワインの消費量は減り続けており、生産過剰となっています。

他の酒類とは異なりワインは農家のブドウ生産と密接に結びついているため、ワインの生産量が減ればブドウ生産農家が打撃を受けます。

 

ワインの消費量減はやはり消費者の健康志向上昇に関係があるようです。

これが世界的な潮流となっているのでしょう。

まあ酒浸りになって体を壊すという人が減るということで、悪いことではないのでしょうが。

 

発電装置について、EPRを持ち出すと誤解する場合がある

このブログでは「エネルギー文明論」というカテゴリーを作りいろいろと書いてきましたが、最近その初期の文章を「雑草Z」さんが読んで下さり、コメントを頂いたことがありました。

sohujojo.hatenablog.comそれによると上記の産総研の解説ページはすでに無いが改めて探したということで、同様のものがコメント内で紹介されていました。

その記事はあまりにも乱暴な書き方がされているため、ここで引用はしません。

しかし、どうやら「EPR (Energy Profit Ratio)」というものに対して大きな見解の相違がありそうです。

その主張では火力発電などは燃焼させるために石炭などを投入しており、それのエネルギーを考えればEPRは1以下だということです。

それに対し、太陽光発電は入力エネルギーの太陽光は「無料だから」入れなくていいのでEPRは高いとしています。

 

どうもこの辺の論理が乱暴と感じます。

そこにはどうやら、「発電装置」というものが「エネルギー発生装置」だと誤解されているのではないかと疑いを持たせられます。

もちろん、エネルギーを何もないところから生み出すなどと言うことはエネルギー保存則に反します。

「発電装置」というのは実際には「エネルギー変換装置」であるにすぎません。

これを模式図に書けば下のようになります。

なお、この図では火力発電も太陽光発電などもすべて同じように表せることに留意してください。

 

ここで、入力エネルギーの量をIE、出力エネルギーの量をOE、発電装置の製造・建設・維持管理・廃棄処分などに関わるエネルギーの量をSEと表します。

 

すると、EPRは EPR=(OE)/(IE+SE)となります。

ここで、エネルギーの変換の場合は必ず OE/IE <1であるのは当然です。

したがって、それにさらに分母にSEが加われば、EPRも1よりかなり低いものとなります。

火力発電ではEPRは1より小さいというのはそれを主張しているわけです。

ただし、これは太陽光などの場合も同様であり、太陽光の持つエネルギーから比べればそこから取り出せる電力は小さいものです。

これを「太陽光は無料だから無視してよい」というのは少し乱暴だということです。

 

さて、私がこれまでにもこのブログの「エネルギー文明論」のコーナーで主張しているのは、太陽光発電のEPRが小さいことですが、そこでは上記のような「太陽光も入力エネルギーと考えるべきだ」という原則はあえて言及していません。

それを仮に EPR(仮)とすると、EPR(仮)=(OE)/(SE)としています。

そして、それでもSEつまり装置の製造から建設・維持管理・廃棄までに費やすエネルギーが太陽光発電の場合は大きすぎ、それに対してOEつまり得られる電力量があまりにも小さすぎると言っているわけです。

 

これは同じようにエネルギー変換システムである火力発電所でのSE、すなわち発電所の建設・装置製造から廃棄までのすべてに費やすエネルギーに対し、OEすなわち発電所の寿命の間に取り出すことのできる電力量が非常に大きいことと対比できます。

これはもちろん、その場合に必要とされる燃料(石炭・石油・天然ガス等)は大量なのですが、これはその燃料の地球上における残存量を考えると問題なのですが、発電装置としてみればそれが高効率であることを示しています。

正確な値は計算困難ですが、非常におおまかな数値として、火力発電所のSEを100とした場合にその発電所の運転期間で得られるエネルギー総量(総発電量)は桁違い、1万とか10万といったものになるかもしれません。

それに対し、太陽光発電所のSEとして同じように100となるだけの装置を考えた場合、その運転期間で得られる電力エネルギー総量は100も行くでしょうか。

せいぜい数百では。

 

このように、発電所というエネルギー変換システムを考えた場合に、EPRという指標を厳格に持ち出すと少し分かりにくくなる恐れがあります。

それよりも、得られる電気エネルギー(上記ではOE)に比べて装置製造等に必要なエネルギー(同SE)が、太陽光発電風力発電の場合にはあまりにも大きすぎることが大きな問題であり、これは経済コストとも大いに関わるために一般的にも分かりやすい欠点ではないかと考えます。

なお、これはいわゆる自然エネルギーの中でも地熱発電潮汐発電といったものではさらに欠点が拡大します。

言ってみれば「あんなバカでかい装置作って、得られる電気はそれだけかい」ということです。

さらに、洋上風力発電というものもこの欠点が大きく、地上風力発電もさほど良いわけではないのですが、それをはるかに越える装置製造建設エネルギーを必要とします。

 

以上、EPRを厳密に考察するのは不可欠なことですが、それで分かりにくくなることもあるという話でした。

 

「鬼平犯科帳(十)」池波正太郎著

多くの作品を読んでいますが、それぞれ凝った作りになっており飽きるということがあまりありません。

 

「犬神の権三」盗賊犬神の権三郎は火盗改与力佐嶋忠介と町で出くわし捕まってしまいます。しかし夜になって火事が起きその騒ぎの中で牢破りしてしまいます。

それを手配したのは火盗改の密偵となっていた雨引きの文五郎でした。文五郎はかつて女房が病気となり亡くなった時に世話をしてくれた権三郎にその義理を果たしたのでした。

「蛙の長助」昔は掏摸の名人といわれた長助ですが年老いて金貸しの取り立てをしています。取り立て先の浪人から痛めつけられたところを平蔵に救われます。長助には昔捨ててしまった女房と子供がいたのですが、その子が苦境に陥ったことを知り金を渡したいと再び掏摸を働き出しますが思うように稼げないまま、急死してしまいます。

「追跡」市中見回りをしていた平蔵はかつて火盗改の目明しをしていたものの素行不良のため追放した藪ノ内の甚五郎を見つけます。そのあとをつけたのですが、少し狂いかかった剣客下氏九兵衛に立ち合いを迫られます。適当にあしらって追跡を続けたい平蔵でしたが九兵衛に切りかけられ。

「五月雨坊主」火盗改の似顔絵描きを請け負っている石田竹仙の家の前に行き倒れて死んだ男が死に際に竹仙の顔を見て「武助が死んだ、おつとめは無理」と言い残しました。どうやら竹仙は盗人仲間の誰かに似ていたようです。竹仙に自分の似顔絵を描かせそれで探索を開始するとそっくりの怪しい人間が浮かび上がります。

「むかしなじみ」火盗改の老密偵、相模の彦十は町でむかしなじみの盗賊網虫の久六と出会います。彦十よりは少し年下ですがそれでもかなり年輩の久六から一度は捨てた妻子が病気となっていて金をやりたいと頼まれ、最後の盗みの手伝いをすることになります。それを察した平蔵は何とか止めようと五郎蔵おまさの夫婦に彦十の監視を命じ、久六一味の盗みの実行直前でお縄にします。

「消えた男」与力佐嶋忠介がかつて平蔵の前任者堀帯刀が火盗改長官であった頃の同僚高松繁太郎と行き会います。高松は堀の仕事ぶりに嫌気がさし行方をくらましたのでした。

その時に捜査の対象だった盗賊一味の捕縛に助力しその後は火盗改の密偵となりますが、一味の残党に殺害されます。

「お熊と茂平」本所弥勒寺の門前で茶店を営む平蔵の昔の知り合いのお熊は弥勒寺の寺男茂平と話をし合う間柄でした。しかし茂平が急に重い病となり死の直前にお熊に告げたことは盗賊の引き込みであることが明らかな内容でした。その伝言を伝えた先が盗賊の盗人宿で平蔵は探索を始め弥勒寺への盗みの直前に一網打尽とします。

 

この鬼平犯科帳では与力同心の描き方より密偵たちの描き方の方に著者の力が入っているように感じます。

雨引きの文五郎、高松繁太郎とこの巻に登場した密偵たちにもそれが見えます。

 

 

「教養としてのラテン語の授業」ハン・ドンイル著

図書館の語学の棚にあったのでラテン語の文法などの本かと思いましたが、中身はラテン語というものを通じて古代ローマや中世のヨーロッパ社会、そして現代イタリアに至るまでの文化的なエッセーというものでした。

 

著者のハン・ドンイルさんは韓国出身ですが、イタリアに渡りラテン語を始め様々なものを学び、ロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士となりました。

これは韓国人としてだけでなく東アジア出身者としても最初となります。

しかしその後韓国に戻っていたところ、ソウルの西江大学からラテン語を教えるように依頼され、初中級者に対してのラテン語の授業を行ったそうです。

その授業が非常な人気となり、西江大学だけでなく他の大学からも聴講生が押し寄せるというものでした。

この本はその授業の内容をもとにまとめたものです。

語学だけを教えるのではなく、古代ローマから現代までラテン語を使用してきた国々の歴史や文化などにも話が広がり、教養というものを身に着けることができるような内容となっています。

 

28章からなっているのですが、その一つ一つは最初にラテン語の文章から始まり、それについて様々な方向から語っていくことでローマ社会、カトリック、イタリアといったものの神髄に触れられるようになっています。

 

Lectio Ⅲは「ラテン語の品格」(De Elegantiis Linguae Latinae)と題されていますが、ここではラテン語の歴史からその性格までを大まかに説明しています。

ラテン語古代ローマ帝国の言葉として地中海世界に広がっていきましたが、著者の意見によれば「ラテン語の特性のひとつに、相手を尊重し認めるという点がある」ということです。

それに続けて「私が外国で生活しながら感じたのは、韓国語が実に荒っぽい言語だということだ。韓国語は年長者であれば相手が年下というだけでぞんざいな言葉使いをする。それにくらべてラテン語では基本的に相手が誰であれ卑下することはない、フラットな状態を前提としている」と書かれています。

そのようなラテン語の性格がローマの地中海制覇を成し遂げる上で力になったのではということです。

 

しかしそのようなラテン語でも「悪口」も非常に発達しました。

Lectio XVⅠでは「ローマ人の悪口」(Improperia Romanorum)が紹介されています。

古今東西、悪口というものがない文化や民族というものは無かったでしょうが、古代ローマでも例外ではなく、非常にそれが発達しました。

Stultus es! ストゥルトゥス・エス、馬鹿野郎という意味ですが、このStulutusからイタリア語のstupido、さらには英語のstupidにつながります。

さらには俗語や猥雑な表現といったものも高度に?発達していったそうです。

 

非常に高尚な雰囲気が感じられるもので、このような授業が受けられた大学の学生というものは幸福であったろうと思います。