爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「人生論・幸福論」亀井勝一郎著

亀井勝一郎は戦前から戦後にかけて活躍した文芸評論家です。

戦前には左翼思想家として活動しますが、逮捕投獄されて転向、その後仏教に触れて回心しました。

人生論・恋愛論などの著書も多数出版しかなりの売れ行きだったそうです。

 

この本もそのうちの一冊でしょうか。

様々なところで発表された文章を集めており、早いものでは昭和10年代から、最後は昭和30年代のものまで含んでいます。

宗教と文学、20世紀日本の可能性、日本の知恵西洋の知恵などとまとめられていますが、最初からそのつもりで書かれたものではないようです。

 

宗教についてはどうも自分がほとんど考えてこなかったせいか、あまりそれの価値に浸かり切った文章は読みにくいものです。

 

あまり長い文章を読んで理解するのに疲れやすくなったせいか、巻末の「断想」と称する2・3行からせいぜい数行の警句的な文章はありがたいものでした。

全部をこれにしてしまうと、それも読みにくいでしょうが、これだけで10ページほどの本にしたらやっぱり売るのも売りにくいか。

 

とにかく、すでに1966年には亡くなられている人の文章です。

その硬い文章の印象だけを見ても時代が変わったということを感じざるを得ません。

 

 

リスク許容度の問題。リスク学者永井孝志さんのブログより。

オリンピックを無観客で行なうということが決まり、欧米などで同じようなスポーツイベントを有観客、それも超満員といった状況で行なって結局感染拡大を招いたこととの対比が言われています。

また、茨城で行われる予定だったロックフェスティバルが中止ということにもなりました。

実はこれらの事態は、あの「こんにゃくゼリー」による窒息事故発生に対する社会の反応と関係しているそうです。

 

こういった事情を、リスク学者永井孝志さんが連載している「リスクと共により良く生きるための基礎知識」で解説していました。

nagaitakashi.net

このような日本と欧米との対応の差というものが生まれるのは、「リスク許容度」というものの差から来るということです。

 

 

安全というものは「許容できないリスクがない」ということであり、そこには科学的に決まるものだけでなく、主観的・心理的な要因も深く関わってきます。

そのために、各国の文化的な背景による影響も非常に大きく、国によって大差があるようです。

 

オリンピックについていえば、「そもそもオリンピックに関心のない日本人が多い」そうです。

関心のない事柄に対しては、リスク許容度も低くなりがちです。

つまり、「関心も無いことで少しでもリスクが上がることは許せない」と考える人々の比率が高いということです。

 

これのさらにはっきりした事例が、茨城で行われる予定だった「ロックインジャパン

」の開催中止です。

興味のない人は全く関心がないイベントで、そういう人たちにとってはそんなことで1ミリでもリスクが上がることは絶対に許せないということになります。

 

これに対し、飲食店に対する営業自粛などの行政対応に対してはかなり反対の意見も強いものです。

これは、関係者も多く国民の関心も高いために、リスク許容度が高くなりがちな事例だそうです。

 

こういった特徴は少し前にあった「こんにゃくゼリー窒息事故」も同様です。

食物による窒息事故の発生は、餅が格段に多く、こんにゃくゼリーによるものはかなり低い頻度でパンと同程度でした。

子供に限っても、最高は飴、さらにサクランボやブドウ、ミニトマトと続き、こんにゃくゼリーの事故例は少ないものです。

しかし、「餅を禁止しろ」という声が出ないのはやはり長年の食習慣であり、こんにゃくゼリーのような新参者は目標にされやすいということです。

 

最後に書かれていますが、こういったリスク許容度という問題は、感染症などの専門家からは全く聞かれないということです。

「語ってはいけない何かがあるのか」と永井さんは結んでいますが、まあそうじゃないでしょう。

「まったく分かっていない」からだと思いますが。

 

 

「超能力の手口」飛鳥昭雄著

今から30年以上前になりますが、ユリ・ゲラーという世界的な超能力者が来日しテレビに出演して数々の超能力という出し物を披露、大きな話題となりました。

 

それを真似して日本人でも子供や青年が何人も出現し、次々と話題になったものです。

今となってはもう影も形もないような事ですが、印象深いものでした。

 

この本はそのブームの直後、自らも超能力者として登場した著者が悔い改めて?自分や周りのいわゆる超能力者たちが行っていたタネありの超能力の出し物の裏を解説したというものです。

 

取り上げられているのは、スプーン曲げなどの「念力」、封筒に入れたカードを明らかにする「透視」、思いもよらない写真を撮影する「念写」、その他念動力、霊現象、心霊写真、予言といったものの種明かしをしています。

 

まあこのような裏話を聞かずとも、当時から正当なマジシャンたちは手品でもできることばかりだと評していたのですが、「純真な子供たちがそんな種を使うわけがない」というおかしな思い込みで大騒ぎしていたものでした。

 

手品の種としては初歩的なものですが、中には失敗することもあったようです。

しかしそこで決まり文句の言い訳というのもありました。

「信じていない人が居るので上手く行かない」

「今日は体調が悪い」

まさに当時聞いたようなセリフです。

 

しかし、こういった風潮が超能力者を自称する若者たちで止まっているだけまだマシだったのかもしれません。

今では政治家や経済人たちがこれより見劣りする言い訳で終始していますから。

 

 

サステナブル(持続可能性)とは何か その3エネルギー

人類は多くのエネルギーを使わなければ生存すら不可能です。

そのエネルギーの種類はどういったものでしょうか。

 

それは太陽の核融合によるエネルギー放射と、地球誕生の頃から蓄えられていたエネルギー(地熱・放射性物質)です。

 

太陽から放射されてくるエネルギーは、地球を暖めると共にそれを利用した化学反応(光合成)の元となっています。

つまり、現在利用されているほとんどのエネルギーは元は太陽エネルギーであったと言えます。

太陽光発電、太陽熱はもちろんですが、風力発電水力発電も太陽熱に暖められた水や空気の運動を利用しています。

植物が太陽光エネルギーを巧みに使って得られるのが木材などです。

そして、化石燃料というものも古代に植物や微生物が太陽光を変換して作った有機物が地中に埋もれて化石化したものであり、もともとは太陽エネルギーであったものです。

 

地熱エネルギーは地球誕生の頃から地底深くに貯められている熱量であり、それが時々噴出して火山の爆発などになっています。

放射性物質も地球誕生時に作られた元素で、地中に埋まったままになったものです。

 

これらのエネルギーのうち、サステナブル(持続可能)なものはどれでしょうか。

 

実はどれも「永遠に」サステナブルであるわけではありません。

太陽も寿命がある恒星であり、数十億年ののちには爆発してしまうと言われています。

地球の内部の熱量も徐々に放散されており、やがては凍り付いた星(中の中まで)になる運命です。

放射性物質も長期間を掛けてですが分裂し続け核反応しなくなる元素に向かっています。

 

ただし、これも前述のとおり「人類として」考えればそんなに長い期間継続することは必要なく、せいぜい数万年安定していれば「事実上サステナブル」と言ってよいでしょう。

それは何かといえば、太陽エネルギー、地熱エネルギー、核放射性物質です。

 

ここで間違えてはいけないのは、「太陽エネルギー」はサステナブルであっても、そのエネルギー保持の状態によりサステナブルではないものがあるということです。

化石燃料は元は太陽エネルギーであったとはいえ、それが既に生物によって有機化合物に変換されて固定化されています。

それを燃焼させることにより貯められていたエネルギーを解放するのですが、それを使っているのが石油・石炭・天然ガスです。

この状態の化石燃料というものはまったくサステナブルではなく、燃やしてしまえば終わりです。

 

つまり、「太陽からのエネルギーの流れ」を活かすことができる形態のエネルギー使用だけがサステナブルということです。

 

こういう見方をすると、植物の利用というのも実は問題を含んでいます。

森林を育成し木材を利用するというのがサステナブルそのもののように見えますが、これも一定期間の太陽エネルギーの蓄積が必要となるということです。

樹木の生育に要する期間、数十年経たなければ使えないとすれば、一年間で使える量というものは限られてきます。

その期間が待てずにどんどんと森林を伐採して行って、結局人間が住むことができなくなったという例は、古代文明の時代からいくらでも見ることができます。

インダス文明メソポタミア文明もどうやらそれで崩壊したようです。

 

この樹木の生育が遅いということは、植物側の性質もありますが、それ以上に太陽光と言うもののエネルギーはそれほど濃くない(密度が薄い)という理由によります。

そして、それは太陽光発電風力発電といった最新のテクノロジーにも影を落とします。

こういった「非常に薄いエネルギー」である太陽エネルギーを捕らえて電力に変換しているのが太陽光発電ですが、そのために大変大がかりな装置を用いざるを得ません。

そして、それがこういったエネルギー装置が非常に不効率で割が合わない理由になります。

 

現在は太陽光発電設備の建設ラッシュの様相を呈しています。

あちこちに驚くほど広大な土地に一杯に太陽光発電装置を備え付けた発電設備が設けられていますが、その規模の割に発電電力量が少ないと感じます。

海上風力発電に至っては、大型船かと見まごうばかりの大きな設備に風車が供えられますが、これも驚くほど少量の電力しか得ることができません。

とてもそんなものじゃ元が取れないというのが素人でも感付くところです。

 

このように、そのエネルギー源が「サステナブル」かどうかということは、10年もそれだけで運転を続ければ分かることです。

おそらく、その設備の分だけの維持管理のエネルギーも賄えるかどうか怪しいもので、再生産、すなわちその装置の耐用年数が切れる以前に同じものを製造するためのエネルギーすら得ることは難しいでしょう。

 

このように、現在のいわゆる「再生エネルギー」が本当に再生可能かどうかは、極めて怪しいものです。

しかし、化石燃料エネルギーが再生可能ではないということは間違いのないことです。

やはりサステナブルであるためには、化石燃料エネルギーへの依存を断ち切り、太陽エネルギーの何らかの使用形態をとらなければならないでしょう。

 

なお、一応「当面の間はサステナブル」エネルギーであるとした、地熱と核分裂物質ですが、これも人間が安全に使えるようなエネルギーとは言えないようです。

地熱は地表に露出しているものはごくわずか、存在するのは分かっていても近づくだけでも容易ではありません。

核エネルギーは、事故と隣り合わせですがそれが解決する見込みはかなり薄いものでしかありません。

 

 このように、「サステナブル」であると言えるエネルギー源は現状ではあるとは言えないようです。

いくら「再生可能エネルギー」などと称していてもほんの数年もすれば化けの皮がはがれるでしょう。

エネルギーに関していえばサステナブルであることは非常に難しいことと言えます。

「甲骨文の話」松丸道雄著

甲骨文字は中国古代の殷王朝で占いに使われた骨にその占いの結果を彫り込んでいたもので、19世紀末になって偶然に発見され、その後文字の解析も行われたというものです。

甲骨文字が発展して漢字になったものですが、これを詳しく見ていくことで現在の漢字の成立過程も見えてきたと言えます。

こういった方向からの研究は白川静さんが行ってきたのは有名ですが、本書著者の松丸道雄さんはあくまでも中国古代史の専門家としての立場から、甲骨文の内容と実際の殷王朝の姿を見ていきました。

そのような松丸さんの研究生活の過程で、様々な目的で書かれた甲骨文に関する文章を一つにまとめたものが本書で、1960年頃の若い時期のものから最近のものまで広い範囲のものが集められています。

しかし、やはり1990年代の著者のもっとも脂の乗り切った時期の文章が多いようです。

 

甲骨文は殷王朝の朝廷における卜占のために用いられた亀甲や牛の肩甲骨に、その占いの結果を彫り込んで残すということで現在まで残存したという、かなり偶然に近い条件が左右して残ったものです。

その発見数は10万ほど、ほぼ紀元前14世紀から11世紀までの200年余りのものです。

実はその数字の意味は非常に奇妙なものを含んでおり、仮に期間を200年、片数を15万とすると、発見されているだけでも毎日2片ずつが延々と使われ削り込まれていたことになります。

もしも未発見のものがこの10倍だとすると、毎日毎日20もの占いが行われていたということです。

その王朝の姿というものは、現代からだけでなくこれまでの歴史時代の政権の姿から見てもかなり奇妙なものだったのでしょう。

 

その甲骨文を年代と共に見ていくと、その期間の中でも文字の書体が大きく変化していることが分かります。

中国の研究者、董作賓が早くも1933年に提唱したところによれば、その年代は次のように区分されます。

第1期 武丁時代 「雄偉」

第2期 祖庚・祖甲時代 「謹勑」(きんちょく、ちょくの字は本当は異なる)

第3期 稟申・康丁時代 「頽靡」

第4期 武乙・文武丁時代 「けいしょう」

第5期 帝乙・帝辛時代 「厳整」

 

ところが、このように各時代で書体というものがきちんと見分けられるということ自体が本来は奇妙に思うべきでした。

実は、これらの多くの甲骨文の彫刻はほんのわずかな人々によって行われていたようなのです。

そのために、その人のクセというものが歴然と影響した物でした。

 

占いを行う貞人という人々はかなりの数が同時に働いていたようです。

しかし、その何と呼ばれたかも分からない職人の集団が実際にわずかな人数で多くの骨の彫り込みを行っていました。

この仮説を提唱したのが松丸さんで、今もその考えに変わりはないとのことです。

 

甲骨文発見の頃のエピソードは広く流布していますが、その清王朝末期には古い時代の古典についての疑いも強くなり、戦国時代の諸子百家が歴史もすべて作り変えたもので、夏・殷だけでなく周王朝も創作ではないかという説も強く主張されていました。

しかしそこに降ってわいたように甲骨文の発見という事実が出現し、そしてその解読が進むにつれて司馬遷史記に詳しく書かれていた殷王朝の歴代王の名がほぼ間違いなく甲骨文にも現れていたということが分かってくると、殷王朝の実在も間違いなくさらに史記の内容の信憑性も確かなものだったということになりました。

 

しかし、甲骨文字自体がその時期に突然構成されたとは思えません。

それに先立つ長い歴史で形成されてきたのでしょうが、その証拠がなかなか見つかりません。

考えてみれば、甲骨文も殷王朝の朝廷の中心部だけで使われていたようで、たまたまそれが膨大な量だったので圧倒されますが、それ以外でその文字が使われていたという証拠もほとんど見つかっていません。

おそらく殷王朝でも初期の時代、さらに夏王朝の時代でもこういった文字が使われていた部分があったのかもしれませんが、それはごく限られた場所だったのでしょう。

そこが発見されない限り文字の発達過程も証明されませんが、無かったということでは無い以上、いつかは発見の可能性はありそうです。

 

見つかった甲骨文の話だけでなく、まだ見つかっていないものについても想像を働かせたくなるようなものでした。

 

 

南島原で「電圧フリッカ」が多発、この先全国に広がるかも。

長崎県南島原で「電圧フリッカ」が多発しているという報告です。

news.yahoo.co.jp太陽光発電の割合の非常に多い地域ということですが、その電圧変動が直接この原因となっているわけではなく、停電検知の装置の機能のためだということです。

真夏の昼間に多く発生し、照明がチカチカするという程度で済んでいますが、電圧変動は精密機器には大敵ですので、被害が多くなる危険性もあるでしょう。

 

この場合は太陽光発電の直接の影響とは言えないかもしれませんが、こういった低品質発電の割合が増えればさらにこういった問題は増えてくるでしょう。

日本の電力供給の品質レベルは非常に高く、それに依存してIT機器の普及発達も可能となってきたと言えます。

それが崩れる危険性があるということでしょう。

 

「細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯」安廷苑著

明智光秀の娘として生まれ、細川忠興に嫁ぎ、その後キリシタンとなり最後は関ヶ原の戦いに先立ち石田三成に人質とされようとして非業の最後を遂げた、細川ガラシャという名は有名でしょう。

キリシタンとなった女性としては最高位の一人であったことで、イエズス会の報告にも名が載ったためにヨーロッパでも知られています。

しかし、著者の安さんがこの研究を始めようとした時には、ガラシャに関する研究が意外なほどされていないことに驚いたそうです。

そのガラシャについて、安さんの専門であるキリシタン史の観点から、イエズス会史料により重点を置いて調べなおしてみた意欲作です。

 

細川に嫁いで数年して父親の明智光秀織田信長に反逆したために、形の上だけですが離縁され水土野という僻地に幽閉されます。

これはどうやら秀吉などの眼から隠してかくまったもののようです。

しかしその後赦免されて大阪の細川屋敷に戻ってからキリシタンに入信したいという強い思いを持ったのは、幽閉当時には想いを持っていたのかもしれません。

 

イエズス会の大阪の教会にガラシャが訪れたのはただ一度だけでした。

ちょうどその時には宣教師の責任者プレネスティーノはちょうど不在で次席のセスペデスのみが居ました。

彼女は洗礼も受ける覚悟で来たのですが、その場で行なうことは教会側が断りました。

この時、教会は彼女がもしかしたら秀吉の側室ではないかと疑ったのでした。

秀吉はその時すでにバテレン追放令を出したばかりで、教会の敵となっていたことに加え、一夫一婦制のみを認めるキリスト教の教義から、側室という存在は認められないものだったからです。

しかし、帰るガラシャの跡をつけ、細川邸に入ったことで細川夫人であることが分かりました。

その後はできるだけ入信ができるように図ったのですが、邸外に出ることは厳しく禁止されていたために教会を訪れることもできず、宣教師の洗礼を受けることはできなかったために、先に入信していた侍女による代洗という方法でキリシタンとなりました。

 

夫の忠興はまったくキリスト教入信の考えは無かったものの、あえてガラシャの入信を妨害するというほどの考えでは無かったようです。

しかしガラシャはそのような状態を変えようと、離婚して一人静かに信仰の生活をしたいと教会の助けを求めます。

ところがカトリックでは離婚ということは認めていないため、宣教師たちは必死で思いとどまることを説得します。

その後、忠興もあえて信仰の邪魔をするということもなかったために10年ほどは安寧な日々が続くのですが、関ヶ原の戦いが近づくことで悲劇が起きました。

 

忠興や長男忠隆、次男忠秋は徳川家康の東軍に加わるために大阪を発ちますが、その際に先の事を見越して「もしも人質となるようなことがあれば自害すること」をガラシャや臣下たちに命じていました。

その予想通りに石田方は人質を出すように申し入れ、それを断られると軍勢を細川邸に向かわせます。

そこでガラシャは死を選ぶわけですが、ここにもキリシタンと言う問題があります。

キリスト教では自殺ということを厳しく禁じており、自殺者は埋葬もできないことになっています。

ここでの死に方というのも、実は前もって教会のオルガンティーノと何度も打ち合わせをしていたようです。

ガラシャの最後にはいくつかの説があり、自分で短刀で胸を突いたという説や、臣下の小笠原小斎がガラシャを切ったという説もあります。

しかし、自分で胸を突くのは明らかな自殺ですし、他人に切らせるというのも自殺と変わらず教会の解釈では自殺と判定されるはずです。

ここでは、オルガンティーノの非常に苦労した解釈があったようで、ガラシャの最後は殉教ということになるということにしたようです。

結局は殉教者とは認められなかったのですが、自殺者とも見なされなかったのは間違いなく、一年後にはガラシャを祀るミサを執り行い、そこには忠興も出席していたということです。

 

なお、人質になるくらいなら死ねという命令は現代人から見れば冷酷なだけのように感じますが、実はこれは細川家を守るためにどうしても必要な事であり、忠興だけでなくガラシャも十分に納得したうえで決めたことだったようです。

その甲斐あり?細川家は大幅な加増を得ることができ大大名として続くことになりました。

ただし忠興の跡を継いだのは長男ではなく三男の忠利となったのは、この時の事情が影響したようでした。

 

ガラシャに関する報告がイエズス会に残ったことで、ヨーロッパでは意外なところでその名が知られることになりました。

17世紀のウィーンのハプスブルク家ではイエズス会を後援していたため、その宮廷で「丹後国王の后、気丈な貴婦人グラティア」という戯曲が上演されたそうです。

ガラシャの実情とは違い夫の迫害で殉教するという内容だったそうですが、間違いなくガラシャについての報告を基にしたものだったようです。