爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「甲骨文の話」松丸道雄著

甲骨文字は中国古代の殷王朝で占いに使われた骨にその占いの結果を彫り込んでいたもので、19世紀末になって偶然に発見され、その後文字の解析も行われたというものです。

甲骨文字が発展して漢字になったものですが、これを詳しく見ていくことで現在の漢字の成立過程も見えてきたと言えます。

こういった方向からの研究は白川静さんが行ってきたのは有名ですが、本書著者の松丸道雄さんはあくまでも中国古代史の専門家としての立場から、甲骨文の内容と実際の殷王朝の姿を見ていきました。

そのような松丸さんの研究生活の過程で、様々な目的で書かれた甲骨文に関する文章を一つにまとめたものが本書で、1960年頃の若い時期のものから最近のものまで広い範囲のものが集められています。

しかし、やはり1990年代の著者のもっとも脂の乗り切った時期の文章が多いようです。

 

甲骨文は殷王朝の朝廷における卜占のために用いられた亀甲や牛の肩甲骨に、その占いの結果を彫り込んで残すということで現在まで残存したという、かなり偶然に近い条件が左右して残ったものです。

その発見数は10万ほど、ほぼ紀元前14世紀から11世紀までの200年余りのものです。

実はその数字の意味は非常に奇妙なものを含んでおり、仮に期間を200年、片数を15万とすると、発見されているだけでも毎日2片ずつが延々と使われ削り込まれていたことになります。

もしも未発見のものがこの10倍だとすると、毎日毎日20もの占いが行われていたということです。

その王朝の姿というものは、現代からだけでなくこれまでの歴史時代の政権の姿から見てもかなり奇妙なものだったのでしょう。

 

その甲骨文を年代と共に見ていくと、その期間の中でも文字の書体が大きく変化していることが分かります。

中国の研究者、董作賓が早くも1933年に提唱したところによれば、その年代は次のように区分されます。

第1期 武丁時代 「雄偉」

第2期 祖庚・祖甲時代 「謹勑」(きんちょく、ちょくの字は本当は異なる)

第3期 稟申・康丁時代 「頽靡」

第4期 武乙・文武丁時代 「けいしょう」

第5期 帝乙・帝辛時代 「厳整」

 

ところが、このように各時代で書体というものがきちんと見分けられるということ自体が本来は奇妙に思うべきでした。

実は、これらの多くの甲骨文の彫刻はほんのわずかな人々によって行われていたようなのです。

そのために、その人のクセというものが歴然と影響した物でした。

 

占いを行う貞人という人々はかなりの数が同時に働いていたようです。

しかし、その何と呼ばれたかも分からない職人の集団が実際にわずかな人数で多くの骨の彫り込みを行っていました。

この仮説を提唱したのが松丸さんで、今もその考えに変わりはないとのことです。

 

甲骨文発見の頃のエピソードは広く流布していますが、その清王朝末期には古い時代の古典についての疑いも強くなり、戦国時代の諸子百家が歴史もすべて作り変えたもので、夏・殷だけでなく周王朝も創作ではないかという説も強く主張されていました。

しかしそこに降ってわいたように甲骨文の発見という事実が出現し、そしてその解読が進むにつれて司馬遷史記に詳しく書かれていた殷王朝の歴代王の名がほぼ間違いなく甲骨文にも現れていたということが分かってくると、殷王朝の実在も間違いなくさらに史記の内容の信憑性も確かなものだったということになりました。

 

しかし、甲骨文字自体がその時期に突然構成されたとは思えません。

それに先立つ長い歴史で形成されてきたのでしょうが、その証拠がなかなか見つかりません。

考えてみれば、甲骨文も殷王朝の朝廷の中心部だけで使われていたようで、たまたまそれが膨大な量だったので圧倒されますが、それ以外でその文字が使われていたという証拠もほとんど見つかっていません。

おそらく殷王朝でも初期の時代、さらに夏王朝の時代でもこういった文字が使われていた部分があったのかもしれませんが、それはごく限られた場所だったのでしょう。

そこが発見されない限り文字の発達過程も証明されませんが、無かったということでは無い以上、いつかは発見の可能性はありそうです。

 

見つかった甲骨文の話だけでなく、まだ見つかっていないものについても想像を働かせたくなるようなものでした。