爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

持続可能社会(定常社会)とはどのようなものか。

「持続可能」という言葉があちこちで語られるようになりました。

以前からこの問題には大きな関心を持っていましたので、多くの人々が興味を持つようになったということは嬉しい限りですが、その実態を見るとまったくの勘違いや方向違いばかりのようです。

 

まず、言葉の整理から。

「持続可能」はつまり、「ずっと続いていく」ということでしょう。

英語でSustainableと言い、こちらの方が良く使われるかもしれません。

 

「ずっと続く」なんて言っても普通の人にはどの程度の期間が想像されるのでしょうか。

まさか1年2年なんて言った短期ではないでしょうが、数十年、数百年、千年になると想像を絶するということになるのでしょうか。

しかし、本当に可能かどうかは分かりませんが、一応「永遠に続く」を意識した構造づくりが必要でしょう。

 

そこで出てくるのが「定常」です。

「定常状態」という言葉の方が良く使われるでしょうが、上にも下にも動かずにずっと一定の状態が続くことです。

これを社会に応用するとどうなるか。

つまり「発展」も「衰退」もせずにずっと同じ状態が続くことです。

実は、「定常」でなければ「持続可能」でもありません。

衰退していく場合は社会自体がどんどん失われていくので想像しやすいでしょうが、徐々にでも「発展」していけばやがて何らかの天井に打ち当たり破局を迎えることもあるという意味で、持続不可能となります。

したがって、「持続可能社会」はほぼ「定常社会」と同義だと考えます。

 

そう言う意味で「持続可能社会」というものを想像してみると、今普通に言われている言葉でSDGsなんて言うのはとんでもない勘違いということも分かります。

「持続的開発」って何のことでしょう。

開発していく限り定常ではありません。いつかは天井にあたるということです。

 

それなら「持続可能社会」というものは具体的にはどういったものになるのか。

 

今普通に言われていることで、「化石燃料を使わない」ことが目指されています。

これ自体、まったく正しい方向です。

化石燃料は古代に蓄積されたエネルギーの化石であり、使ってしまえば無くなるということでこれを使っていてはまったく持続不可能です。

ところが、これを持ち出す意味として二酸化炭素温暖化などを使うから話がずれてきます。

「使えば無くなるものには頼らない」であれば良いものを、異論もたくさんある「二酸化炭素温暖化」を理屈に持ち出すので反対意見も続出し、気候変動などと言うことを持ち出して脅しを掛けなければならなくなります。

 

いくらエネルギー源として優秀であっても化石燃料には頼らないという姿勢が持続可能社会を作って行こうという時の正しい姿勢です。

そして、使えるエネルギーは人類と比べればはるかに長い寿命を持つ「太陽エネルギー」「地球内残存エネルギー」だけとすれば、永遠というのは無理でも事実上の持続可能となります。

具体的には太陽エネルギーと地熱エネルギーのみとなります。

 

ここを捉えて、多くの人々は太陽エネルギーの利用法として太陽光発電風力発電を持ち出し、それに転換していくことが必要だとしています。

 

ここに大きな間違いがあります。

太陽光発電、そして太陽エネルギーが形を変えた風を捕らえる風力発電は、どちらも非常に希薄な太陽光エネルギー、風力エネルギーを捕捉して利用可能な電力とするために、膨大な装置を必要としています。

その装置の製造にかかるエネルギーは莫大なものであり、現在は化石エネルギーを使って作るという矛盾的な行為で何とか維持していますが、化石エネルギーを使わなければとても作れるものではありません。

 

それでは何のエネルギーを用いるのか。

実はやはり太陽光や風力でしかありません。

ただし、人々が考えているような大規模発電ではなく、ごく小さな風車、太陽熱利用装置などでエネルギーを動力エネルギーや熱エネルギーとして使うものです。

そして、その程度のエネルギーが「持続可能社会で使用可能なエネルギー」なのです。

 

つまり「持続可能社会」というものは「低エネルギー社会」であるということです。

 

今の社会のように、電力は使い放題、自動車や飛行機を使った移動を享受し、様々な工場製品を何でも使うということはできなくなるということです。

 

そんな社会で生活できるか?

ほんの100年ほど前まではどこでもやっていた生活です。

ただし、日本で言えば明治時代以前の社会とは違うものになります。

使えるエネルギーは少なくなっても、科学技術自体は残っています。

ごく少ないエネルギーで利用できる技術は何とか使って行くことになるでしょう。

 

そこで何ができるのか。

これはとても難しい予測であり簡単には言うことができません。

トラックで全国至る所に荷物を運ぶなどと言うことは全く無理になります。

そもそも、農業生産自体極めて制限されることになり、食糧も減少します。

高度な電気製品も使える電力が少なくなるという前に、製造自体が困難になります。

 

そう言う状態に平和的に移行していけるのかどうか。

私はそれは困難なことだと感じています。

やはり大混乱がやってきてそれでほとんどの文明が破壊され、その後限られた人数で自給自足の小さな社会で過ごすのではないでしょうか。

それを暗い未来と感じるかもしれませんが、それが私の「大予言」です。

 

なお、かなり難しいことですが具体的なイメージを湧かせられるようなものを次回(いつになるか分からないけど)出してみたいと思います。

「緊急事態なのにこんなに外出している奴らがいる」という報道は逆効果

いつも注目しているリスク学者の永井孝志さんですが、「緊急事態なのにこんなに外出している」という報道姿勢について論じています。

nagaitakashi.net

ニュースを見ればそういった報道ばかりが目立ちます。

しかし、この陰には大多数が自粛しているという事実があるはずです。

それを言う方がよほど効果があるのに、どうしても「まだこんなに外出」といった方向になってしまいます。

 

このような報道は、一応は自粛しようとしている人たちにも「みんなやっている」という感覚を持たせ、「なら少しは良いか」という方向に誘導してしまう可能性があります。

 

また「焼け石に水」感覚を持たせてしまうという危険性もあるようで、「自分は我慢しているのにこんなに守らない奴らがいたらそんなことも焼け石に水」だと思わせてしまいます。

 

このような報道姿勢になってしまう理由も考察されています。

やはり「出歩く奴を制裁したい」というのが多くの人々の意識の下にあるため、こういった報道が受けるという意識があるということです。

このように、自粛しない奴らが報復を受けるのを望むという人々の心理を、「忠臣蔵効果」と呼ぶというのは、永井さんのジョークでした。

 

規範・制裁・報復に関する本も紹介されていました。

ダン・エリアリーと言う人の著作についても書かれていました。

探して読んでみようかな。

 

「嗅覚はどう進化してきたか」新村芳人著

「匂い」を感じるとはどういうことなのか。

その機能を研究していくと不思議な生物の働きが分ってきます。

 

香料というものは、人類の文化が生まれた当初から重要な働きをしていました。

エスが産まれた時に東方からやってきた三賢人は黄金・乳香・没薬の贈り物を捧げました。

この乳香というのはボスウェリア属の樹木、乳香樹から採取される樹液です。

没薬もコンミフォラ属の樹木、没薬樹からの樹脂でアラビア半島で採取されます。

こういった香料は文明の早い時期から知られ、高価なものとして流通していました。

他にも麝香、竜涎香、霊猫香などといった香料が知られています。

 

匂いというのは感覚であり、それを引き起こすのは分子です。

分子は空気中を漂って、鼻に到達しその奥にある嗅神経というところで嗅覚受容体という細胞に結合します。

それによって引き起こされた刺激が脳に伝わり匂いを感じるとうことになります。

 

匂いを感じさせる分子のうち分子量が最も小さいのはアンモニアで、分子量17です。

一方、もっとも大きいものは分子量389のインドール系化合物です。

ただし、その範囲の分子量で気体になるものがすべて匂いがあるというわけではなく、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素一酸化炭素などはいずれも匂いはありません。

大部分の匂い分子は有機物です。

これはやはり生物の活動が匂いを感じることと関係があったからでしょう。

ただし、無機物の中にも例外的に匂いがあるものもあり、ハロゲン元素、リン、ヒ素などは匂いを感じます。

また、「金属臭」というものを感じることがあります。

しかし、これは本当に金属から出るイオンの匂いを感じるわけではなく、汗で湿った手で金属を触った時に発生する分子のうち、「1-オクテンー3ーオン」という分子の匂いだということが明らかになりました。

鉄に触れると常にこの反応が起きるため、鉄そのものの匂いだと錯覚してしまうようです。

 

 鼻の奥には嗅神経細胞が何百万個も並んでいて、そこには嗅覚受容体というセンサーがあります。

ヒトではその種類が約400種類ということですが、一種類の受容体が一種類の匂い分子と結合するというわけではなく、その関係は多対多となっています。

その組み合わせで匂いが分別されるようなシステムになっています。

脳はそのパターンを認識してその匂いであると判別しているようです。

本書ではそのシステムを「色覚のメカニズム」と対比して論じています。

光受容体はヒトでは4種類あり、そのうち3種が色の判別に使われます。

それぞれの受容体は、赤、緑、青に対応する光によってもっとも活性化されます。

そして光を感じている場合にはその波長によって受容体の活性化率が異なってきます。

もしも「黄色の光」が知覚されるという場合は「赤オプシン(受容体)と緑オプシンが同程度に活性化され青オプシンは活性化されない」という状態として認識されています。

これを「三原色」というのですが、しかし匂いの場合は「原臭」というものはありません。

かつては三原色と同じように匂いにも「原臭」というものがあるのではないかと考えられ、盛んに研究も行われました。

1963年にはイギリスのジョン・アムーアという化学者により「7原臭」というものも発表されましたが、その7原臭をいくら調合しても作れない匂いが非常に多いことが分かり、この理論は否定されています。

 

「イヌはヒトの1億倍の嗅覚を持つ」などという話がありますが、それは少し大げさだとしても動物により嗅覚には大きな差があります。

嗅覚受容体を作り出す遺伝子の数は動物によって違い、ヒトでは約400個ですがイヌはその2倍の800個です。

ところがアフリカゾウではさらに多い2000個もの遺伝子を持っています。

それでは「ゾウはイヌの2倍以上鼻が良い」のでしょうか。

嗅覚を比較するには、「どれくらい低濃度でも感知できるか」という感度の問題と、「同じような匂いを嗅ぎ分ける」識別能力の問題があります。

アジアゾウアフリカゾウほど遺伝子数が多くはないのですが、おとなしいために実験に使うことが可能なため、「匂いの判別能判定試験」をやった事例があります。

それによると、ほとんど同じ構造の化合物でも匂いの差を嗅ぎ分けることが立証され、それはヒトやリスザルより優れているということが分かりました。

 

イヌの嗅覚が優れているという場合は、感度の問題が主要になります。

感度に影響を与えるのは、一つには嗅神経細胞の数がありますが、人で約500万個であるのに対しイヌでは2億個です。

また嗅覚受容体そのものの感度の違いもあり得ることですが、これはまだ研究されたことがありません。

鼻の解剖学的な構造の差も感度に影響する可能性があり、イヌの鼻腔構造は吸気に含まれている匂い分子を効率的に送り込むことができるという研究結果もあります。

様々な要因はありますが、1973年にモールトンと言う研究者が発表した論文によれば、「イヌの嗅覚感度はヒトの約100倍」だったという結果が出たそうです。

「1億倍」とはかなりの差がありますが、実際はイヌの中でも種による差、個体差、そして対象とする化学物質の差も大きく、一概に何倍とは言えないようです。

 

嗅覚というものが進化の過程でどのように変化してきたかと言う研究もされています。

嗅覚受容体遺伝子の数は猿の類でも種によって差があり、原始的な曲鼻猿類(キツネザルなど)では700個程度あるものがオナガザルなどでは370程度、ヒトやチンパンジー、ゴリラなどでは400個程度となっています。

どうやら霊長類は進化の過程で嗅覚受容体遺伝子を徐々に失って行ったようです。

これには、進化により食物が変わってきたことと関係がありそうです。

一口でいって果物から葉へ食べ物が変わりました。

その後ヒトになると「生ものは食べず必ず火で調理する」ようになりました。

そのために嗅覚もかなり変化したようです。

このあたりの遺伝子の研究はまだ始まったばかりであり、今後も現在の人類や化石人類の遺伝子を研究していくことで解明されていくことでしょう。

 

嗅覚はどう進化してきたか――生き物たちの匂い世界 (岩波科学ライブラリー)

嗅覚はどう進化してきたか――生き物たちの匂い世界 (岩波科学ライブラリー)

  • 作者:新村 芳人
  • 発売日: 2018/10/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

バイデン大統領就任式、一応無事終了のようで。

アメリカのバイデン大統領の就任式は、一部の情報でデモが騒乱状態になる危険性もあるということで、厳戒態勢で実施されましたが、一応無事に終了したようです。

 

無事終了だけで喜ぶというのは、民主主義の総本山を自認するアメリカとしては非常に情けない話だと思いますが、まあ仕方ないでしょう。

 

仕事始めにはパリ協定復帰の大統領令書名とか。

諸国との協調体制を取るといったポーズでしょう。

しかし中国に対する警戒は怠らないということです。

 

200兆円にもなるコロナからの復興政策を実施とか、その費用はさらに国債追加発行でしょうが、そのうち何割を日本に押し付けるのでしょうか。

 

どういったことになるのか、まだまだ予断は許さないといったところでしょう。

「やっぱり、このゴミは収集できません」滝沢秀一著

著者の滝沢さんは漫才師として活動しているものの、結婚し子供もできたために定収がなければと考えてゴミ収集会社に就職したそうです。

ゴミを収集していると色々な社会の姿が見えてくるということで、その体験をツイッターで公表すると人気を集めました。

それを本にまとめたということです。

 

職業に貴賎なしなどと言っても、やはりゴミ収集に携わる人々を低く見る人たちも多いようで、そういった人々からの心無い発言も受け続けながらの仕事ですが、彼らから見ればそういった人々の生活の裏側も手に取るように分かります。

その場では言い返してもこじれるばかりなので、適当に相手をするのですが、その腹いせを書いたりということもあったようです。

 

住宅地はやはり経済状態によって色分けされており、貧乏な地域、金持ちばかりが住む地域というのは厳然とわかれています。

ゴミの状況もそれぞれの家庭の経済状況によってかなりの差があるそうです。

特に高級住宅街の金持ちばかりが住む地域では、そもそも「ゴミが少ない」そうです。

少しばかり金回りが良いといった成金地域では非常にゴミが多いということもあるのですが、親代々大金持ちといった地域では出るゴミが少ないようです。

やはり無駄なものは買わないから金持ちなのか、はっきりとはしないようですが。

 

成金小金持ちの地域では、都内では珍しく「剪定された枝葉」や「雑草」といったゴミがかなり出てくるのも特徴的です。

「ああ、ここには庭があるんだ」ということを感じさせてくれます。

しかし、「本当の金持ち」地域になればこういったものは出てきません。

それらの家庭では自分で剪定するようなことはなく、専門の業者にすべて依頼するために刈り取った枝葉や雑草も持ち帰るため、それらをゴミに出すこともありません。

つまり、小金持ち地域では「自分で庭の剪定などをやっている」からだそうです。

 

都内のある地域では、会社のゴミも少量であれば家庭ゴミと同様に収集することがあるそうですが、そのゴミの出し方を見ればその会社が繫栄するのか潰れるのかも分かるそうです。

違反ゴミを頻繁に出すような会社はたいてい「6年以内」に潰れるとか。

やはり会社全体がいい加減で上司からきちんとできないような会社には将来はないそうです。

 

コロナ禍があり、在宅勤務が増えたということもあって、ゴミにも影響が出ました。

時間が余るからか、家の中の整理をやるしかない人が多かったようで、膨大な量のゴミを一気に出す家もあったようです。

一軒で20袋もの洋服を一気に出されて、その地域のゴミが収集者に入りきらないといった問題も出たそうです。

また色々なゴミもこの際出してしまえという人も多かったらしく、収集車の中で発火するというボヤ騒ぎも多かったとか。

特にリチウムイオンバッテリーというのが曲者で、ゴミ圧縮で圧力がかかると火を噴くそうです。

それもすぐではなく数十分後に発火するということで、小型爆弾のような危険があるようです。

 

それでも冷たい態度の人ばかりではなく、ありがとうと声をかけてくれる人もあり、また小学生の男の子が収集作業の間ネットを持っていてくれたりということもあるそうです。

 

ゴミを見ればその人の生活が分かるというのは確かでしょう。

まあ、だから気を付けるという人はそもそもその必要もないくらいしっかりした人なのでしょうが。

そんなことは全く欠片も頭の中に無い人が問題なのですから。

 

 

 

 

今度は「不織布マスク警察」まで現れたそうで、嫌な日本人の習性。

「マスク警察」とか「自粛警察」など、何とか警察というものがはびこるという嫌な風潮ですが、今度は「不織布マスク警察」まで登場してきたそうです。

news.livedoor.com

確かに不織布マスクの飛沫防止機能は優れており、布製マスクやウレタンマスクは見劣りするのですが、その報道に過剰に反応している人が多いようです。

 

一部の美容院や病院などで、布製やウレタン製マスクをしてきた人に対して不織布マスクの着用を強要するということが見えてきたとか。

 

不織布マスクの性能が優れているといっても、着用方法が不十分であれば意味がありません。

 

そのうちに「N95マスク強要」などということにもなり兼ねない状況かもしれません。

それは極端としても、現在の不織布マスクでも完璧な着用を心がければかえって呼吸しづらくなるという欠点もあります。(だからこその防止性能なんですが)

 

終わりのなかなか見えない状況で苛立ちも増えているのでしょうが、益々嫌な風潮になっていきます。

太平洋戦争に向かって進んでいた頃の社会もこのような雰囲気だったのでしょうか。

肉食系男子は持続社会(定常社会)には邪魔なのか。(女子も含む)

私と非常に近い考え方をしていたということで、かつてはお互いのブログを頻繁に行き来していた「雑草Z」さんという方が居ます。

「雑草の言葉」というブログをされていたのですが、何やらトラブルが多発したということで長い間休眠されていました。

しかし、昨年になってようやく復活され記事更新も定期的に行われるようになり、一安心しています。

 

私とは少し違った興味の対象があるようで、それがまた参考にできる(というか、このブログのネタにできる)というありがたい状態です。

 

今度の記事で「悟り世代の消費離れ」というお題で書かれていましたが、そこにヒントを頂いて「肉食系」というもにについて考えてみました。

zassou322006.blog.fc2.com

雑草Zさんの考えでは、昨今の「物欲が小さい若者」たちはこれからの社会には合致しており大人たちの称揚するような消費志向、出世志向の人間などはかえって社会を混乱させるだけだということです。

 

不正確かもしれませんが、この差はいわゆる「草食系」と「肉食系」というものとかなり重なるものと考え、そう表記しておきます。

 

雑草Zさんも私も、今後の社会は収縮せざるを得ずその後定常社会となるべきだという考えを持っていると思いますが、そのような定常社会では肉食系の人は邪魔なのでしょうか。

 

そもそも、人類の歴史上定常社会というものがあったのかどうか。

新人類(ホモサピエンス)の誕生から今まで約20万年、人口は徐々に増えていきました。

それだけでも「定常」では無いということですが、そこは我慢しておきましょう。

そのような社会では、やたら頑張って獲物を多く獲ったり果実を必要以上に集めたりするような精力的な人間はかえって困りものだったでしょう。

食料資源が限られている環境ではその再生が可能な以上に獲ってしまえば資源はどんどんと枯渇してしまいます。

ぼちぼちと足るを知り必要十分な量だけを獲らなければ社会の破滅にもつながりました。

 

しかし、文明が始まり農業社会が広がり、やがて産業社会となるのですが、その拡大の時期には精力的な肉食系人間が求められました。

その他の草食系人間を支配し、生産や戦争に追い立てて勢力拡大を成し遂げようとしたのでしょう。

それが人類の歴史とも言えます。

 

ところが、地球全体の資源を使い果たそうという状況になり、環境破壊も人類だけでなく生物全体の生存すら危うくするような時代となりました。

このまま乱暴狼藉を許されることはなく、いずれはおとなしくしなければならないのでしょう。

 

ただし、今後エネルギーも資源も供給が先細りになるのが定常社会なのですが、それでも何にも無くなるわけでがありません

科学技術の成果もあふれるほどあるわけで、それも捨てられるわけではありません。

その社会がどういう形になるのか想像が難しいものです。

 おそらくその過渡期にはかなり中途半端な形が長く続くでしょう。

減りつつある果実も独り占めしようとする肉食系が続出する恐れが大きいでしょう。

 

とにかく、どうも人類がこのまま社会の収縮をおとなしく受け入れるなんていうことがあるはずも無いと内心では思っているので、悪い想像しかできません。

やはり破局的な事件が起き、ほとんど死に絶えるのではと思ってしまいます。