爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「指揮者の役割 ヨーロッパ三大オーケストラ物語」中野雄著

「指揮者の役割」と題していますが、内容はヨーロッパ三大オーケストラ、すなわち🈮ウィーン・フィルベルリン・フィルアムステルダムロイヤル・コンセルトヘボウとその指揮者との物語といったところでしょうか。

 

著者の中野さんは現在は音楽プロデューサーということですが、東大法学部卒業後は銀行勤務をしていたという、音楽専門というよりは音楽好きが高じて仕事にしてしまったという方のようです。

ヨーロッパのオーケストラ事情にも非常に詳しいようで、そういった内実まで書かれているようです。

 

「指揮者について」書かれている本でありながら、ウィーンフィルは指揮者などいなくても演奏できるようです。

かえって、下手な指揮者が居ると邪魔とでも言うかのようです。

1970年代にカール・ベームの指揮でウィーンフィルミュンヘンに公演に行きました。

しかし、ブラームス交響曲第二番を演奏している最中に、停電でホールの灯りが消えてしまったそうです。

会場は真っ暗闇になったのですが、演奏は止まりません。

弾き終わるまで停電は終わらずに全員暗譜で最終楽章を弾き切りました。

 

演奏中の停電はベルリン・フィルでもありました。

まだ第二次大戦中の1945年、ベルリンで行われたコンサートで空爆の影響で停電になりました。

フルトヴェングラーの指揮は続き楽団員は必死に演奏を続けようと試みるも、次々と脱落、最後の第1ヴァイオリンもやがて息絶えるように演奏を止めたそうです。

 

これはウィーン・フィルが音楽的に長けているということではなく、やはりそのオーケストラの思想によるようです。

1960年代にあるフランス人指揮者がウィーン・フィルの指揮をしてカルメンを演奏したとき、彼と楽団員との間にトラブルが発生、演奏の途中にオーケストラが突然二つに分かれて演奏しだしました。

オケがバラバラになったのではなく、正確に2つに分かれてずらして演奏したのです。

とうとう指揮者は泣きながら指揮を続けたそうです。

 

ベルリン・フィルはチェロやコントラバスなどの低音弦楽器の音がずしりとした重量感を持ちベートーヴェンブラームスの曲を演奏する時には非常に強い力を発揮するそうです。

そのベルリン・フィルを戦前から戦後まで長年率いていたのがフルトヴェングラーでした。

しかし彼が1954年に急逝するとその後継者として選ばれたのがまだ若いカラヤンでした。

カラヤンフルトヴェングラー在任中にはほとんどベルリン・フィルの指揮台に立つことはできませんでした。

フルトヴェングラーカラヤンの才能を見て嫉妬し遠ざけようとしていたようです。

しかし楽団員や聴衆はカラヤンを欲し、後任の常任指揮者となりました。

しかもその地位に「終身」という条件まで付けさせました。

その後、ベルリン・フィルに君臨し続けたのですが、あまりの強権ぶりに最後は見放されることになります。

 

カラヤンの活躍時期はちょうどLPレコードの普及とも重なり、その利用を積極的に進めたカラヤンは世界的な名声をも手に入れます。

その少し前の指揮者たちのように、レコードなどは軽視し演奏録音もしようとしなかった態度とは正反対にそれを活用して世界的な名声を手に入れました。

さらにこれはオーケストラの収入増加にもつながり、実際に楽団員たちの収入も増えました。

ただし、クラシック音楽のファン層拡大というのは同時に「ファンの質の低下」ともつながります。

聞き手の質の低下は演奏家のステージにも影響を与えます。

最高を求める演奏というものは減少しているということです。

 

三大オーケストラのもう一つ、アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団も第二次大戦の被害を大きく受けました。

ユダヤ人の優れた演奏家が数多かったものの、ナチスのために去ってしまいました。

終戦後、それを立て直すのは非常に困難が多かったようです。

その任にあたったのが、地元出身の指揮者べイヌムだったのですが、彼がすぐに急死してしまいます。

後継者選びは難航し2年以上たってからようやく決まったのがハイティンクでした。

ただし、まだ若かった彼の養育係?としてドイツ人のオイゲン・ヨッフムとの共同常任指揮者という異例の事態になりました。

 

この本は「指揮者の役割」という題名でありながら、かなりの部分をコンサートマスターの物語にも当てています。

コンセルトヘボーでも長らく務めたクレッバースについての記述が多くなっています。

ただし、オーケストラでのコンサートマスターの地位は非常に高く、コンセルトヘボーが演奏旅行に行くときもホテルの部屋は指揮者よりクレッバースの方が良かったということです。

これは、ウィーンフィルボスコフスキーベルリンフィルのミッシェル・シュヴァルヴェも同様なのですが、クレッバースは彼らより厚遇されていたとか。

 

クラシック音楽についての概観もコンパクトにまとめられています。

18世紀の音楽は、愛好家の関心が「新作の出来」であったのに対し、20世紀には「旧作の演奏の出来不出来」になってしまいました。

一言で言って18世紀は「作曲の時代」、20世紀は「演奏の時代」、19世紀はその折衷または過渡期と言うことができます。

バッハやモーツァルトの時代に、作曲ができずに演奏するしかない音楽家は「楽士」と呼ばれ待遇は下僕並み。

しかし20世紀にはいると作曲した新作では人が呼べなくなりました。

マーラーリヒャルト・シュトラウスサラサーテラフマニノフらは作曲家と演奏家を両立させていた最後の世代でした。

20世紀も後半にはこういった類の音楽家は絶えました。

 

どうも、こういった音楽の楽しみ方というものには疎く、名演と駄作の違いも分からないのですが、分かった気分にさせてくれるような文章でした。

 

 

 

新型コロナウイルス、「日本モデル」とは何だったのか、どうなったのか。

新型コロナウイルス感染の拡大が、日本では政府の無策にも関わらず遅かったのは「日本モデル」というものがあるからだという話が、昨年夏ごろには盛んに流されました。

 

あの前首相などもエラそうにそう言っていたこともあります。

 

しかし、感染第三波と言われる状況になり、そのような話はまったく消え失せてしまったようです。

 

本当にそんなことは無かったのでしょうか。

それとも他の要因?

医療崩壊ばかりが声高に言われていますが、そういった過去の状況をきちんと見直してみることも必要ではないでしょうか。

 

そして、それはなぜ今になって急激に感染拡大しているように見えるかということにもつながってくると思います。

 

考えられるシナリオはいくつかあります。

まずは、「急拡大だ、医療崩壊だと言われているが、まだ実際はそれほど急でもなく拡大もしていない」

一日当たり数千人の新規感染者が出ていますが、それでも欧米の諸国と比べれば一桁以上小さい値です。

本当はまだ「日本モデル」があるのかもしれません。

 

拡大したのは「寒くなったから」かも。

「温暖化」と言われているにも関わらず今冬の寒さは非常に強いものです。

その影響がこんなところに現れている?

 

よく言われるように、「感染慣れ」してしまい人との接触や移動を避けるという気運がすっかり減少してしまった。

こればかり言われていますが、本当のところはどうなのでしょうか。

 

まだ公式には認められていませんが、「変異ウイルス」が拡大しているのかも。

大きな遺伝子変異が起きていれば分かり易いでしょうが、まだ検出されない程度の変異が感染力に影響を与えているかもしれません。

 

医療体制の強化と言ったことも大切でしょうが、このような基礎的研究も必要なのでしょう。(どこかでやっているかもしれませんが)

 

ガースー首相の何が問題なのか、東京新聞望月記者が語る

国民に語り掛けるどころか、記者会見すらまともにやろうとはしないガースーですが、その問題点について東京新聞の望月衣塑子記者に作田裕史さんと言う方がインタビューした記事が、AERAdotというサイトに掲載されていました。

dot.asahi.com

ほとんどまともに国民に対しての説明すらしないということが不信感を呼んでいるということですが、総理記者会見というものが現在どのようになっているのかということも語られています。

 

昨年の非常事態宣言が出された後から、首相記者会見には「一社一人」しか出ることができないようにされてしまいました。

表向きの理由は「密を避ける」ですが、そうではないことは明らかです。

 

「一社一人」であればどうしても政治部の記者しか出ることができず、望月さんも社会部記者なので入場不可となるそうです。

 

また、運営上の都合として「一人につき質問は1問」「さら問い(質問を重ねること)は禁止」といったルールを押し付けそれに従わない記者は指名しません。

また望月さんの属する東京新聞は記者会見の事前に質問内容を明かす(”投げる”と言っています)ことはしないことにしているためか、質問者として指名されることはないそうです。

 

指名された記者がする質問は「投げられている」ことは明らかで、ガースーが答える時に用意した原稿に目を落とすことで証明されています。

 

このような対応でも乗り切れるというのは、安倍内閣官房長官としてずっと記者会見をこなしてきたという自信があるのでしょう。

その時代に「全く問題はない」「指摘は当たらない」というのが官房長官の決まり文句としていつも聞かれたのですが、それで通用すると思い込んでいるのが今の首相です。

 

しかし、「平時」であった安倍内閣時代にはまだそれでも通用していたのが、コロナ禍の「非常時」である現在では不可能だということが理解できていない。

 

もともと、裏で権威をふるってきた人なので、演説ということがほとんどできません。

それが必要な首相という地位についても、もはやその能力は付けることができないのでしょう。

 

最後に望月さんは「言葉に魂をこめてほしい」と結んでいますが、もちろんそんなことができる人ではないことは良く分かっているのでしょう。

 

私も首相記者会見の様子をテレビで見て、一々原稿に目を落としているのがありありと分かり、なんでだろうと不思議に思っていました。

それがこういうカラクリだということか。

メルケルと比べるのもお笑いのようですが、そんな笑うしかないのが日本の首相です。

 

夢の話「自転車で坂道の多い町を走り回る」

本題に入る前に、このブログを始めた2012年当時のものを少し読み返してみたのですが、最初の頃はほとんどが「読書記録」、ところがその頃からすでにぽつぽつと

「夢の話」を書いているんですね。

最近では社会に対する怒りのブログという性格が強くなっていますが。

 

それはともかく、

 

またまたごく若い自分が出てくる夢を見てしまいました。

まだ高校生のようです。

親は自動車学校を経営しているようなのですが、自分もそこでなんと「自転車の乗り方」の講師をアルバイトでしています。

 

友人のA男、C子、D子とグループ交際をしています。(なんて言っても若い人はよく分からないかも)

この「A男」というのはここに書くから匿名にしたわけではなく、夢の中でもそう呼んでいます。

なお、自分は「B男」です。

女子のC子はA男の彼女、D子が私の彼女です。

ちなみに、現実の家内とはまったく違うタイプの女性です。

 

夢の中で、A男と共にちょっと町まで出てくるかという話になり(どうやら自宅は街はずれ)自転車で出かけます。

ところが、その町と言うのがかなり高い丘の上にあり、出発点からは相当急な坂を登らなければいけません。

行き方には2通りあり、急な坂を少しだけ登る道とだらだら坂を長く登る道とどちらをとるかでA男と意見が食い違い、A男は急坂、私はだらだら坂の道と別れて登ることにしました。

 

あのよくテレビで見る「日本列島縦断こころの旅」の火野正平さんのように、自転車ではあはあ言いながらだらだらと坂を登っていきます。

しかし、かなりの距離を走ってもなかなか町中にはたどり着きません。

疲れ果てたところで夢も終了。

なにかよく分からない幕切れでした。

 

今住んでいる九州の田舎町には近くにはほとんど「坂」というものがありません。

当地の自動車学校で免許を取った家内は、そこでは「坂道発進」は習わなかったと言い張っています。

そのような坂だらけの町という所には住んだことはないのですが、両親の故郷の長野県南の町などのイメージでしょうか。

あるいは昔住んでいた前橋からちょっと行った赤城山麓や伊香保温泉がそういった場所かもしれません。

 

とにかく今日の夢の主題は「長い坂を自転車で登る」でした。

 

PCR検査法に疑惑、賀茂川耕助さんのブログより。

賀茂川耕助さんのブログの最新記事に現在Covid-19(新型コロナウイルス)検査の標準法となっているPCR検査法についての疑惑が書かれていました。

kamogawakosuke.info

賀茂川さんのことですから事実関係に間違いはないと思いますので、すべての裏付けを取ることはせずに引用します。

 

新型コロナウイルスの検出法としてPCR検査法を発表したのはドイツのドロステン教授で、2020年1月21日ということです。

なんと、まだ丸1年も経っていないようです。

その後、世界保健機構(WHO)がいち早くウイルス検出プロトコールとして認定したために世界基準となってしまいました。

 

そして、その内容自体に疑問を持つ人が居るようです。

ドイツの科学者たちが異議を唱えているということですが、新型コロナウイルスの実物を実際に見ずに検査法を作り上げてしまったこと、プライマー(DNAの合成・複製に必要な核酸の断片)の取り方が不十分であり、結合温度が高すぎて不特定な結合を起こし、そのため新型コロナ以外のものも捉えてしまうということ、さらにドロステン教授の発表論文の共著者にこのPCR検査キットを作成した会社の経営幹部が含まれているということを論拠としているということです。

 

賀茂川耕助のブログ」にはこのような記述ですが、少し解説しておきます。

 

PCR検査法においては、ウイルス全体のDNA配列を参考にして、他のウイルスや細菌、その他の生物と判別できる「真にCovid-19に特有の」DNA配列を特定し、その配列のみをPCR反応で増幅できるプライマーを特定する必要があります。

それが不十分であった場合には思わぬ反応を引き起こし、擬陰性、擬陽性を生じる危険性もあるわけです。

(なおCovid-19のPCR検査にはRNAを使っているようですが、DNAと表記しておきます)

 

なお、この問題はウイルスが変異して遺伝子が変わった場合、その変わった部分が検出に関わることがないかということも関係してきます。

つまり、変異ウイルスが検出できなくなる危険性もあるということです。

 

Covid-19のPCR検査については、日本疫学会のHPにも解説があります。

jeaweb.jp

ただし、ここで主に問題とされているのは患者の身体からのウイルスの採取の問題についてであり、PCR検査それ自体は不問とされています。

しかし、それにしても擬陰性がかなり大きいと言った問題点はあるということです。

 

元に戻って、賀茂川さんが問題としていたそもそも最初の検出遺伝子の設定についてはまだ情報が見つけられず、なんとも言えませんが、絶対にありえないという話ではないように感じます。

さて、本当のところはどうなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

電力供給逼迫、長崎県の石炭火力発電所で重油燃焼対応

強い寒波の影響で電力使用が急上昇、供給が逼迫し危険な状況となっています。

昨日は関西電力で99%まで行ったとか。

供給不足となると突然の停電が大規模に広がる危険性もあります。

 

そんな中、九州電力(九電ではなく電源開発でした、訂正します)の長崎県にある石炭火力発電所で、重油を燃料とする緊急対応で発電するというニュースがありました。

www3.nhk.or.jp

また例の「石炭火力発電所二酸化炭素温暖化の主因」という魔女狩り(トランプがよく言っていますが、こちらが本来の使い方)かと思いましたが、そうではなかったようです。

 

この発電所では石炭を砕きながら投入する方式と言うことですが、その破砕装置が故障したために停止していたそうです。

 

しかし、電力供給が不足する危険性が出たために急遽重油を燃料として燃焼させて運転するという対応をするということです。

 

石炭を燃焼させるより出力が50%程度減るようですが、それでも供給不足の危険よりはましということでしょう。

 

ようやく寒さのピークは越えたようで何とか最大の危機は通り抜けたのでしょうか。

 

「敗北を抱きしめて 上」ジョン・ダワー著

先日読んだ「新現代歴史学の名著」という本の中で紹介されていたものです。

それに惹かれていつもの市立図書館の蔵書を調べたらあったので、借りてみました。

 

著者のダワー氏は1938年生まれのアメリカの歴史学者で、終戦時にはまだ7歳、終戦後の日本というものを実際に見聞きしたのではないのですが、その後研究対象としてきました。

その記述はたいていの日本人よりは深くかつ正確で、日米双方の当事者に対しての批判的な見方には偏りはなく、極めて公平なものと感じられました。

 

本書は上下二巻に分かれており、今回は上巻のみ読みました。

上巻では終戦直後の敗者たる日本人の悲惨な状況、その中で生きていかなければならなかった人々の姿、そしてアメリカ軍の強制とはいえ民主化を進めなければならなかった日本各地の人たちを描いています。

 

まず最初に強調されたのが、アメリカ占領軍(国連軍とされていましたが、実質上は完全にアメリカのみの統治です)が日本を軍事独裁から解放したかのような印象を広めましたが、実際にはその統治は権威主義的な支配であり、日本人は軍事支配を1945年8月で抜け出したと考えられていますが、実際にはそれは1952年まで続いていました。

天皇とその官吏が不可侵の権力構造を作っていた戦前の体制のその上に、マッカーサーの占領軍が乗っかってさらに不可侵の体制を作り上げました。

その悪影響が戦争で大きな被害を受けたアジア諸国に及びました。

アジア諸国は日本に対して直接の補償請求などを行う術を失い、アメリカを通してしか何もできないことになりました。

 

またアメリカ人たちは占領政策を直接自分たちで行うことはせず、すべて天皇の官僚組織に依存しました。

アメリカ人が去ったあとには官僚組織がそのまま権力を維持し、かえって戦前より強化されたかのようでした。

それを行うためにマッカーサー天皇の戦争責任だけでなく道義的責任すら免除しました。

結局「戦争責任」という言葉はほとんど冗談のようにされてしまいました。

わずかにほんの少数の最高指導者だけが戦争裁判で見世物のように行われただけでほとんどがうやむやにされたのも、占領軍の政策のためでした。

 

第二次大戦後に多くの日本人が過酷な状況に置かれましたが、中でも海外に出ていた日本人たちの運命は悲惨なものでした。

敗戦時にはおよそ650万人がアジアや太平洋の各地に取り残されました。

そのうち350万人は兵士でしたが残りは民間人で女性や子供も多数でした。

これらの人々の帰国は遅れました。

ソ連によるシベリア抑留が有名で、多くの人々が死亡しましたが、他の地域でも程度の差はあれ同じようなことが行われました。

アメリカもフィリピンや太平洋地域の軍事施設建設のために70万人以上の日本人を拘留、中国は国共内戦のために両陣営に日本人兵士を従軍させその数は7万人近くにのぼりました。

 

戦争の犠牲者というべき人たちへの冷酷な扱いもひどいものでした。

親を失った戦争孤児や、夫が戦死した戦争未亡人、ひどい怪我を負った傷痍軍人、広島長崎の原爆被災者など、救いの必要な人たちに対して何の救護もしないばかりか差別し排除していきました。

 

そのような人達が何とか生きていくための手段として選んだのが、第3章の中でも扱われているように「パンパン」「闇市」でした。

1946年撮影の写真というものが掲載されていますが、子どもたちの遊びとして「パンパン遊び」の様子です。

意味は分からないままでしょうが、GI帽子をかぶった男の子と女の子が手をつないでいます。

他にも子供の遊びとして「闇市ごっこ」「デモ遊び」があったそうです。

 

終戦直後の国内では物資の極端な不足、特に食料がほとんど渡らないという状況になりました。

東京地裁の山口判事が配給の食料以外は食べずに餓死したのが1947年11月のことです。

山口判事は法廷で闇市の食料を買ったということで捕まった人々を裁く業務を毎日のようにやっていて、有罪判決をしながら自分でも闇食料を食べるということに耐えられなくなったのでした。

 

このような状況をもたらした一因は敗戦直後に政府や軍の物資を大量に我がものとした高級軍人、政治家、官僚とその仲間たちにあります。

8月20日にはマニラの米軍は日本政府の降伏使節に「一般命令第1号」として日本軍の全資産は手を付けずに保管することを命令しました。

しかし、その命令はまったく無視されその後数日の間にほとんどの軍資産は持ち出されてしまいました。

そして、極秘情報を焼却すると称してほとんどの記録も焼かれたのですが、実はこの多くは物資の帳簿などを含んでおり、それが無くなったことで横流しの事実も不明となったそうです。

 

アメリカの占領軍の中でもいろいろな勢力争いがありました。

アメリカの中にも多くの日本研究者や以前からの日本通という人も多かったのですが、占領軍の中にはそういった人々はほとんど入っていませんでした。

マッカーサーを始め占領軍の中心はほとんど日本の事情にも文化にも興味をまったくもたない連中ばかりでした。

これは日本降伏の少し前になって急激に進んだ米軍内の勢力変化によるものでした。

もしも1945年初頭に天皇側近が目論んだような降伏交渉がうまくいっていれば、都市空襲や原爆などで100万人以上の生命が助かったことでしょうが、それとともにワシントンでの占領政策の急進化も進まず、戦後の日本の占領政策がかなり違ったものとなっていたかもしれません。

1945年初めには戦後日本に民主主義革命を起こそうという計画は無かったからです。

その後の半年でワシントンの勢力図は大きく変わり、そういった勢力が力を持ったためにこのような事態となりました。

 

非常に興味深い内容でした。