爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

夢の話「大相撲、正代関になった夢」

今日の夢は何と、大相撲の新大関、熊本の希望の星の正代関になっちゃいました。

 

最初はこれまでのイメージ通り、ネガティブな性格という評判通りの自信なさそうな相撲ぶりです。

 

しかし、徐々に立ち合いからの勢いが付き、相手力士が吹っ飛ぶようになってしまいます。

この前の場所どおり、最後は大関を粉砕して優勝を決めます。

なお、実際には千秋楽は翔猿に食いつかれ薄氷の想いの突き落としなのですが、それは夢には出てこずに、大関戦で終わっていました。

 

優勝後のお国入りまで夢は続きました。

これも、実際には正代は熊本県宇土市出身で、先日帰郷した時の様子はニュースでも報じていましたが、夢の中ではここではなく私の両親の故郷の長野に帰ることになっていました。

夢の中でも非常にきれいな山の緑と空の青さが印象的でした。

 

正代関も来場所にさらに期待が高まります。

怪我さえしなければかなりのところまで行けると思うのですが。

「その〈脳科学〉にご用心」サリー・サテル、スコット・リリエンフェルド著

脳科学という分野が脚光を浴びています。

平常な状態でも脳の活動状況が測定できるという、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)が開発され、それで画像化された脳の映像は誰でも見たことがあるかもしれません。

 

何らかの刺激とそれに対応する脳の画像を解析することで、脳の反応を見ることができるかのような学説が氾濫し、それを用いたマーケティングや、裁判での主張などが広がっています。

 

しかし、脳の反応などはそう簡単な経路だけで説明されるはずもなく、また個人差と言うものも当然大きなものであるはずが何も考慮されていないようです。

 

こういった、危険なほど安易な脳画像を用いたものについて、精神科医のサテルさんと心理学教授のリリエンフェルドさんが多くの事例をあげて解説しています。

ただし、お二人とも専門家としては優秀なのでしょうが、ちょっと文章が硬いようで慣れない素人には少し分かりにくいものでした。

 

最初にひかれている例は他でも聞いたことがあることです。

ジャーナリストのゴールドバーグ氏を調査した脳科学リサーチグループは、彼をfMRI装置に縛り付け、「ジョン・マケインバラク・オバマ、ヤーセル・アラファトブルース・スプリングスティーンマフムード・アフマディネジャド」といった人名を聞かされたのですが、「アフマディネジャド」という名前の時にだけ特徴的な脳の部分の活性化が認められたため、彼はイランの大統領に何らかの関係があると言われたというものです。

この脳の反応と、人名の羅列の読み上げとがどういう対応をするのかも全く分からない中で、その関係を作文するだけのものが学問という名にも値しないのは明らかです。

 

しかし、この程度の根拠であっても、きれいな脳画像の色分けが何か意味があるように説明してしまえば、それを使って仕事をしたい人々にとっては十分な資料になるようです。

 

このような検査手法を「脳スキャン」と言いますが、著者はこれを「脳スキャム」と言い換えています。

スキャムとは「詐欺」のことです。

ニューロマーケティングと称して商行為に応用しようとしている人々は詐欺同然のことをしているように見えます。

 

脳画像を見ながら、商品を見せたり名前を読み上げたりした時の変化を見てその商品と反応を関係づけるということですが、それが本当に購買行動に結びつくのかどうかもまったく分かりません。

それを、何らかの関係があるかのように見せかけるのには、まだ全くデータが足りません。

こういった解析をすばらしい意味があるように見せかけ、企業関係者に高い金で売りつけるのはまさに脳スキャムという名にふさわしいようです。

 

こういった「脳科学」は、裁判で無罪を勝ち取ろうとする被告の弁護人などにとっては有用な道具になり得るようです。

犯罪の被告の脳科学的な分析を行い、彼の脳には何らかの病的な部分があってそれが犯罪を引き起こしたとして、責任能力がないとか、仕方ないことだから減刑すべきといった論法で使われるようになりました。

アメリカの裁判では陪審制であるため、見た目のアピールが強い脳画像は有効であったようです。

 

著者は脳科学や脳画像法を批判するつもりはないとしています。

ただし、それを商業や臨床医学、裁判などの領域に対して応用するのはあまりにも時期尚早であり、単なる画像に何らかの意味を見出すには研究がまだ及んでいないということを主張しています。

脳科学者にサイレンスライターのデイヴィッド・ドブスが2011年の会合の際に「脳を完全に理解するために必要なことは現在何%分かっているか」と尋ねたそうですが、科学者たちは皆一桁の数字を挙げたそうです。

まだ基礎的な研究を地道に続けていく段階で、とても応用はできないということでしょう。

 

日本でも怪しげな脳の画像を振り回す人々が出ているようです。

気を付けなければ。

 

 

池袋暴走事故の被告が車の異常を主張したことに批判が広がる

池袋での車の暴走事故を起こした元高級官僚の被告が、車に異常があったことを事故原因だと主張していることで、批判が広がっています。

news.yahoo.co.jp

ただし、これまでも無数の自動車事故が起きていますが、実際に「車の異常」があったということもかなりの数発生しているということは事実でしょう。

何とか事故に至らなかった場合はその検証も可能ですが、事故になってしまった場合は車両も大破しており、なかなか証明もできずに「運転者のミス」にされてしまった例が多いのではないかと思います。

 

まあ、本件の場合は事故後の車両の検証も完全ではないもののできているようですし、何より、もしも車両異常があり「アクセルが戻らずに加速した」ということがあったとしても、それに対して「キーを廻してエンジンを切る」とか、「ギアを戻す」とか、そして何より「ブレーキを踏み続ける」という対応を何もしていなかったようで、ただハンドルを持ってぼーっとしていたというのでは、責任を逃れることは不可能でしょう。

 

単に責任逃れのための元高級官僚らしい狡猾な態度と見られても仕方のないところです。

 

飲食店で気を付けるべきは「グループ間感染」か「グループ内感染」か、永井孝志さんのリスク学研究より

リスク学研究者で、さまざまなリスクについて書かれている永井孝志さんの「リスクと共により良く生きる」で、飲食店でのウイルス感染防止について興味深いことが書かれていました。

nagaitakashi.net

GOTOキャンペーンでは、それを受ける旅館・ホテルや飲食店での感染症対策がきちんとされているかどうかが重要視されています。

 

しかし、それはどう見ても形だけというところがほとんどではないかと言う疑問はこれまでにも何度も書かせていただきました。

 

永井さんの今回の文章では、それが「グループ内」か「グループ間」かで対処の方法も違うということ、さらにGOTOイートキャンペーンでは、これまでの各業種での感染防御ガイドラインより後退しているのではないかということが述べられています。

 

家族だけで飲食店に行って食事するのであれば、「グループ内」で感染する可能性は極めて低いものでしょう。

それ以前に十分に接触していますので、感染するならもう全員感染していることになります。

しかし、友人・知人、親戚など、普段は一緒に居るわけではない人たちが一緒に会食するのが「グループ内」なわけです。

 

そういうわけで、飲食店での会食の際の注意は「グループ間」より「グループ内」に向けられるべきだということです。

 

ところが、今回のGOTOイートキャンペーンの感染対策では、このグループ内感染防止のための対策と考えられる「テーブル上のアクリル板等による隔離」というものが抜けており、これは今年5月14日に出された外食事業向けの対策ガイドラインより後退しています。

 

どうもGOTOイート用の感染対策では「グループ間感染防止」しか考えていないようです。

あるいは、あまり厳密な対策をしてもしょうがないと意図的にカットしたか。

 

さらに、その他の記述についても、「徹底した」「できるだけ」「適度な」といったあいまいな表現が多く、具体的な数値基準が設けられていないようです。

 

最近の飲食店由来の感染拡大も、「グループ間」および「客から従業員へ」というものも見られますが、やはり多いのは「その時のグループ内」での感染拡大のようです。

それに対するにGOTOイート用の感染対策基準ではどうやら不十分なようです。

これでは、経済再興優先だと見られても仕方ないでしょう。

 

なお、GOTOトラベルについては何も触れられていませんが、旅行での宿泊施設ではだいたい家族や親密なグループでの宿泊でしょうから、これの方が意外にグループ内のリスクは低いのかもしれません。

もちろん、旅館ではそうでしょうが土産物店や飲食店では別問題ですが。

 

 

コロナ禍、各地で大規模クラスターが次々と発生、やはりまだ免疫獲得はできていないのか。

コロナウイルス感染者発生もようやく落ち着いたかとして、各種事業が開始・再開ということになっていますが、それでも各地で大規模な集団感染が発生しています。

news.yahoo.co.jp埼玉での劇団練習での62人集団感染ということですが、熊本でも飲食店(接待を伴うというやつですが)でまだ拡大中、他の店でも新たに発生確認ということです。

 

もはや多くの人が抗体獲得していて感染防御できているなどという珍説も出ていますが、どうも怪しいもののようです。

ただし、すぐに重症化ということも少ないようなので、その効果かもしれませんが。

 

ウイルスなどの感染に対して体内で抗体が作られ、それで新たな感染を防ぐという免疫作用については、その病原体によってかなりの違いがあります。

 

どうやらこのコロナウイルスはそれがかなり出来にくい印象があります。

今後もある程度の感染拡大は続くのでしょう。

なお、PCR検査での発見を基にした「無症状感染者」は従来の基準であれば感染者には算入できなかったことは留意する必要があると思います。

毎年のインフルエンザ感染者でも、病院で確認していない人々は数に入っていないでしょう。

確かに感染者には違いはないのですが、どうでしょうか。

「モラルの起源 実験社会科学からの問い」亀田達也著

直接本書の内容とつながるものではないのですが、冒頭に2015年に文科省から出された大学の組織改革についての通知について書かれています。

そこには人文社会科学系の学部は再編、削減すべしという趣旨が書かれていました。

理系の学部に比べて社会のためになっていないかのように言われる文系学部ですが、著者は「実験社会科学」という学問をしている文系研究者として、そうではないということを示そうとしたということです。

 

それはともかく、本書の目指すところは「モラル」という人間の心理に深く関わる性状がどういう風に成り立っているのか、人間での検討や動物の観察などを通して解明してくというものです。

 

動物は自らが生き残り子孫を残していくために最善の努力をしていくのですが、その努力の方向は動物種によって異なります。

単独で狩りをする肉食動物であれば、より強い肉体を持つことが生存条件なのでしょうが、人間の場合はそのような身体ではありません。

かなり早い時期から人間はある程度の人数とともに集団で狩りをするという体制になりました。

すると、集団に適応しなければ生存していけないことになります。

 

群れの中で生きていくということは、孤独に生きれば良い動物と違って、非常に複雑な情報処理能力を必要とします。

群れの環境の中では常に他者の動向に注意を払いその行動に最善を尽くさなければなりません。

そのために、人間は非常に大きな脳を獲得しました。

脳と言う器官は維持コストのかかるものです。

脳が身体の中で占める体積は2%程度ですが、そこで消費するエネルギーは20%以上にもなります。

このような高いコストをかけても大きな脳を維持してきた理由は、それが必要だったからということでしょう。

そして、その必要性の最大のものは「集団の中で上手くやっていくこと」だということです。

 

社会的動物としてはヒトを含む大型類人猿の他に、ハチやアリといった社会性昆虫という種があります。

そこでは確かに「集団としての意思決定」が行われています。

しかし、ヒトなどの集団と昆虫の集団との大きな違いが、ハチなどではすべてが極めて近い血縁集団であるということがあります。

ヒトでは集団の構成メンバーの一定部分は濃い血縁者ですが、それ以外にも多くの非血縁者を含みます。

ハチの意思決定を観察すると、そこでは討論は行われません。

すべてが近縁の血縁なのでそれは必要ないわけです。

ヒトはそういうわけには行きません。

一応同じ集団に入ってはいても、血縁が薄いメンバーが何をやるか、分かったものではないのでその行動を起こす前にきちんと説得することが必要になります。

それがヒト特有の「空気を読む」行動につながります。

ハチでは「空気を読む」必要はありません。

 

互恵的利他主義、つまり持ちつ持たれつの関係というものは、広い動物種に存在しています。

非血縁者であっても、自分のために何かしてくれた他者のために返そうという行動はよく見られます。

しかし、二者の場合には上手くいっても、多くの構成員を含む集団ではこれが働かなくなります。

これを「共有地の悲劇」と言います。

産業革命以前のイギリスの農村には、コモンズと呼ばれる共有地があり、農民はそこに羊を放して育てて暮らしていました。

しかし、産業革命で多数の羊を飼えば羊毛を売ることができるようになると、共有地で多くの羊を飼おうとするようになり、すぐに草を食べ尽くしてしまいました。

個人の利益と社会全体の利益が一致しないこのような事態を社会的ジレンマと呼びます。

こういった事態は動物では解決できません。

ヒトなら何とか解決できるのでしょうか。

こういった問題について、多くの心理学的実験が行われました。

どのような心理から行動するかもかなり分かってきているようです。

 

正義とモラルというものは、社会を整えていくために不可欠なものです。

しかし、正義は個人を越えるか、さらに正義は国境を越えるかと言われるとそれは難しいと言わざるを得ません。

個人の生活によって、民族の性質によって、別々の正義ができてしまいます。

 

非常に大まかな言い方ですが、正義のもとになる倫理には「市場の倫理」と「統治の倫理」の区別があるそうです。

市場の倫理とはその名の通りに自由な取引を重んじる商人型の道徳規範です。

一方、統治の倫理とは、政治・権力関係に基づく秩序を重んじる、官僚・軍人型の道徳規範です。

これらの二つの倫理の特徴は多くの点でまったく相反するものです。

例えば、外国人とは協力する―排他する、暴力を締め出すー復習する、競争するー名誉を貴ぶ、契約尊重ー位階尊重といった具合です。

 

社会が違えば倫理も違い正義も違うのですが、私有地の悲劇は全世界的に起こっておりどこかで正義を擦り合わせなければいけません。

どこかに共通基盤を発見していくには努力が必要です。

 

なかなか意欲的な内容を分かり易く解説されていたと感じました。

 

 

「自分が外したのではない」驚愕の言い訳、スガは学術会議会員任命の経緯を「説明」した。

すったもんだ、ぐちゃぐちゃの議論(というか言い合い)が続いていますが、任命経緯についてスガ(”アベポチ”ではあまりにも可愛く聞こえてしまうので止めます)が驚愕の言い訳をしました。

www.jiji.comなんと、学術会議が提出した会員候補リストは「見ていない」

「会員候補リストを拝見したのはその直前だったと記憶している。その時点では最終的に会員となった方(99人)がそのままリストになっていた」と述べ、6人の排除に関与し得る立場になかったと強調した。

自分のところに上がってきたリストではすでに6人は載っていなかったということです。

 

忖度に長けた官僚がすでに排除したリストだけを見たということでしょう。

 

これで、人間として最低の度量すら持ち合わせないスガは「犬にも劣る」としか言いようがないことが分かりました。

 

総理である自分のために働く官僚は一応は「部下」であるわけでしょう。

 

自分の責任でやったことを「部下の責任」にしてしまう。

まったく「人の上に立つ」人間としてやってはいけないことでしょう。

 

私もしがない会社ですが中間管理職として勤めていたことがありますが、そこで言われたのは「部下のせいにしないこと」が最低限の倫理だということです。

それは管理職としては最低のことだと。

いろいろと厳しいこともありましたが、それは肝に銘じていました。

 

日本国の最高位にある(のかな)ものがこれでは。

アベもひどかったけれど、それよりはるかに程度の低い者であることがはっきりしました。