直接本書の内容とつながるものではないのですが、冒頭に2015年に文科省から出された大学の組織改革についての通知について書かれています。
そこには人文社会科学系の学部は再編、削減すべしという趣旨が書かれていました。
理系の学部に比べて社会のためになっていないかのように言われる文系学部ですが、著者は「実験社会科学」という学問をしている文系研究者として、そうではないということを示そうとしたということです。
それはともかく、本書の目指すところは「モラル」という人間の心理に深く関わる性状がどういう風に成り立っているのか、人間での検討や動物の観察などを通して解明してくというものです。
動物は自らが生き残り子孫を残していくために最善の努力をしていくのですが、その努力の方向は動物種によって異なります。
単独で狩りをする肉食動物であれば、より強い肉体を持つことが生存条件なのでしょうが、人間の場合はそのような身体ではありません。
かなり早い時期から人間はある程度の人数とともに集団で狩りをするという体制になりました。
すると、集団に適応しなければ生存していけないことになります。
群れの中で生きていくということは、孤独に生きれば良い動物と違って、非常に複雑な情報処理能力を必要とします。
群れの環境の中では常に他者の動向に注意を払いその行動に最善を尽くさなければなりません。
そのために、人間は非常に大きな脳を獲得しました。
脳と言う器官は維持コストのかかるものです。
脳が身体の中で占める体積は2%程度ですが、そこで消費するエネルギーは20%以上にもなります。
このような高いコストをかけても大きな脳を維持してきた理由は、それが必要だったからということでしょう。
そして、その必要性の最大のものは「集団の中で上手くやっていくこと」だということです。
社会的動物としてはヒトを含む大型類人猿の他に、ハチやアリといった社会性昆虫という種があります。
そこでは確かに「集団としての意思決定」が行われています。
しかし、ヒトなどの集団と昆虫の集団との大きな違いが、ハチなどではすべてが極めて近い血縁集団であるということがあります。
ヒトでは集団の構成メンバーの一定部分は濃い血縁者ですが、それ以外にも多くの非血縁者を含みます。
ハチの意思決定を観察すると、そこでは討論は行われません。
すべてが近縁の血縁なのでそれは必要ないわけです。
ヒトはそういうわけには行きません。
一応同じ集団に入ってはいても、血縁が薄いメンバーが何をやるか、分かったものではないのでその行動を起こす前にきちんと説得することが必要になります。
それがヒト特有の「空気を読む」行動につながります。
ハチでは「空気を読む」必要はありません。
互恵的利他主義、つまり持ちつ持たれつの関係というものは、広い動物種に存在しています。
非血縁者であっても、自分のために何かしてくれた他者のために返そうという行動はよく見られます。
しかし、二者の場合には上手くいっても、多くの構成員を含む集団ではこれが働かなくなります。
これを「共有地の悲劇」と言います。
産業革命以前のイギリスの農村には、コモンズと呼ばれる共有地があり、農民はそこに羊を放して育てて暮らしていました。
しかし、産業革命で多数の羊を飼えば羊毛を売ることができるようになると、共有地で多くの羊を飼おうとするようになり、すぐに草を食べ尽くしてしまいました。
個人の利益と社会全体の利益が一致しないこのような事態を社会的ジレンマと呼びます。
こういった事態は動物では解決できません。
ヒトなら何とか解決できるのでしょうか。
こういった問題について、多くの心理学的実験が行われました。
どのような心理から行動するかもかなり分かってきているようです。
正義とモラルというものは、社会を整えていくために不可欠なものです。
しかし、正義は個人を越えるか、さらに正義は国境を越えるかと言われるとそれは難しいと言わざるを得ません。
個人の生活によって、民族の性質によって、別々の正義ができてしまいます。
非常に大まかな言い方ですが、正義のもとになる倫理には「市場の倫理」と「統治の倫理」の区別があるそうです。
市場の倫理とはその名の通りに自由な取引を重んじる商人型の道徳規範です。
一方、統治の倫理とは、政治・権力関係に基づく秩序を重んじる、官僚・軍人型の道徳規範です。
これらの二つの倫理の特徴は多くの点でまったく相反するものです。
例えば、外国人とは協力する―排他する、暴力を締め出すー復習する、競争するー名誉を貴ぶ、契約尊重ー位階尊重といった具合です。
社会が違えば倫理も違い正義も違うのですが、私有地の悲劇は全世界的に起こっておりどこかで正義を擦り合わせなければいけません。
どこかに共通基盤を発見していくには努力が必要です。
なかなか意欲的な内容を分かり易く解説されていたと感じました。