爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

加計学園問題はもう飽き飽き?ならどうすれば良いのか

加計学園の国会閉会中審査というものが開かれましたが、野党側の質問も大したものは出ず、平行線をたどるのみで、「こんなことにいつまで時間を使うのか」といった論調も(まあ何らかの意図で出されているんでしょうが)目立つようになりました。

 

まあ、後は安倍首相を出席させて、怒らせて失言をさせるといった程度しか展開は無いと思いますが、それはそれとしてでは「どうしたら良いのか」の一例を示したいと思います。

 

 

この問題での構図はだいたい以下のようなものでしょう。(以前にもまとめましたが)

 

安倍首相の親友、加計学園の理事長が獣医学部を新設しようとした。

文科省が獣医の過剰などを口実に抵抗した。

首相周辺が文科省に圧力をかけ経済特区を口実に新設を促した。

 

ここで、加計学園理事長は安倍首相に以前からこの件は話はしたとしても、そこに金が絡むということはなかったでしょう。

つまり、贈収賄等の刑事事件となることはまず考えられません。

まあ、単なる「陳情」に過ぎず、誰でもやっているようなことです。

ただし、これを実現させようという首相の思いは強いものでした。

 

そこで、首相周辺の政治家や内閣府官僚を使ってありとあらゆる手段で文科省に働きかけた。

ここでも、単に首相が押し通そうという政策を官僚や政治家に指示しやらせただけで、何ら違法性もなく通常の政務の一環でしょう。

 

それをやむを得ず了承した文科省官僚は通常の手続きにしたがって処理した。

ここも、手続き上何ら違法性はなかったでしょう。

 

このように、手続き上は何の問題もなく、違法性も全く無い業務推進が行われたということです。

 

しかし、そこで行われたことは「首相の親友に特別の利益を与えるという不正」でした。

これに、違法性の無い事自体が問題です。

 

おそらく、ここまでの過程には一片の違法性も無いということは間違いないでしょう。

しかし、道義的な問題は極めて大きいものです。

ここは、安倍首相はその道義的責任を取り首相職ばかりでなく議員も辞職し、さらにこういった事が再発しないような対策をきちんと取るべきでしょう。

そのためには、適切な法整備はもちろん、こういった場合の解明のために「特別検察官制度」といったような制度整備も必要でしょう。

 

もし、これらを実行できるなら、これまでやった不正行為の責任を越えて「日本政治の改革者」として未来まで名誉を残すことができるでしょうが、安倍首相はその名誉は必要としないのでしょうか。

 

「家族と格差の戦後史 1960年代日本のリアリティ」橋本健二編著

昭和30年代を扱った映画や本、写真集などが流行っているようです。

もちろん、その最大の要因は映画「ALWAYS三丁目の夕日」の大ヒットでした。

その雰囲気が誰にも懐かしさを呼び起こすものでしたが、しかしその内容は誰にも知られることはありません。

つまり、メイン舞台の「鈴木オート」の年収はいくらだったのか、集団就職で勤めだした六子の給料はいくらだったのか、故郷の青森の親や兄弟はなにをしていたのか、等々の詳細は闇の中です。

 

こういった事柄は政府の「国勢調査」「労働力調査」である程度は知ることができます。

しかし、こういった調査には限界が多く、これらの統計は基本的には個人単位集計であるために家族の就業構造といったことはわかりません。

 

こうしたテーマについて、社会学者のグループが1955年から5年おきに実施している調査があり、SSM調査(社会階層と移動全国調査)というものでした。

しかし、これにも致命的とも言える欠点があり、1965年調査までは「調査対象が男性だけ」というものだったのです。

これでは現在から見直した時に使い物にならないところだったのですが、1965年の調査原票が奇跡的に残されていました。そこには家族の状況が書き込まれ、女性たちの様子も分かる部分があったそうです。

もちろん、男性主体の調査だったために女性だけの世帯は含まれていないといった点は残っていますが、少しでも情報を引き出そうと、編著者の武蔵大学教授の橋本氏を始めとする社会学研究者たちが解析し直したものがこの本にまとめられています。

 

1965年と言うと、戦後日本社会の曲がり角と言うべき時代でした。

高度経済成長はちょうど折り返し点と言えるところです。

第1次産業から急速に人口が第2次産業に移ってきたのですが、それがこの辺から第3次産業へ流れるようになります。

それまでの自営業セクターと言うべき農業や商工業者から、資本主義セクターの資本家と労働者階級へと変質していきます。

この時代には農家はその戸数は維持したままですが、人数がどんどんと減っています。

跡取り男子以外は労働者として流出していますが、農家自体が無くなることは無かったという、過渡期だったと言えるでしょう。

また、労働環境では1965年の失業率は1.2%と歴史的に見ても一番低かった時代です。

これは完全雇用とも言えますが、実はその多数は劣悪条件で就業する労働者が多く、また自営業者も事実上は失業者と変わらないような潜在的雇用者が蓄積していました。

 

世帯の総収入というものが、平均で年間42万円ほどでしたが、農家世帯ではそれが27万円に過ぎません。

一家総出で働きながらこの金額にしかならず、生活水準は貧困世帯と変わらないものでした。

一方、労働者階級でも収入の多い世帯や、新中間層と言う高収入世帯では、夫が働くのみで妻は専業主婦という家庭形態が普通となり、女性の就業率は非常に低いものでした。

 

農家世帯からはその後続々と都会に流出する次男・三男たちが増えていきます。

しかし、彼らも学歴が低いために高収入の職に就くことがかなわず、中小企業等に雇用されることが多いのでした。そのために、その後の収入も低いままとなり、その後の格差拡大の要因ともなることになります。

また、彼らの低収入のためになかなか結婚しづらいということもあったようです。

 

現代の社会格差の拡大という問題の基になるのは、かつての格差であったのでしょう。

それが当時の資料の精細な解析によって明らかにされるものとなっています。

 

 

家族と格差の戦後史―一九六〇年代日本のリアリティ (青弓社ライブラリー)

家族と格差の戦後史―一九六〇年代日本のリアリティ (青弓社ライブラリー)

 

 

1965年といえば、私は小学校高学年。もう周りの状況もある程度は分かってくる年代でした。

我が家は父がサラリーマン、典型的な新中間階級と言うような家庭で、あまり経済的に苦しいといったところはありませんでしたが、親戚には農家もありその暮らし向きは楽ではなかった様子が感じられました。

決して、懐かしいとだけ言っていられる時代ではなかったという印象は持っています。

「人類とカビの歴史 闘いと共生と」浜田信夫著

著者の浜田さんは大阪市環境科学研究所に長く勤務され、その間住民からのカビなどの相談を数多く受けてきたそうです。

自分でも疑問を持った点など、すぐに実際に実験してみて解答を得るといったことに務められていた様子が、この本の記述からもよくわかります。

 

そこで、これまでの経験からカビと人間の関わりということを、汚染に留まらず利用の点も含めてまとめられています。

 

私も会社在職時には同じような分野に属していましたので、非常に親近感をおぼえる内容になっています。

 

 

本書は、まず最初に「カビとは何か」というお決まりの紹介から始まりますが、その後は「食品とカビ」「住居とカビ」「カビと健康」「カビと人との関わりの変遷」と、人間に生活とカビとの関わりを広く解説されています。

 

食品のカビ検査というものを、著者は業務として20年以上やってきたそうです。

カビ被害の多い食品というと目立つのは菓子類だとか。

羊羹やカステラなど、やや湿った菓子類が多いそうです。またチョコレートは通常はあまりカビが生えないものの、二層構造になっていて中に生チョコがあるといったものはその隙間にカビが入りやすいとか。

 

洗濯機にカビが生えるということはよく知られていますが、それがどのようなカビなのかということはあまり調べられたことがなかったそうです。

著者はそれを研究してみました。

すると、通常の室内に多い「クロカワカビ」という種類のものは少なく、エキソフィリア、スコレコバシディウムといった暗色のカビが多かったそうです。

これらは普通の空気中にはほとんど見られないものです。

これらのカビを、クロカワカビと対比させ生育試験をしたところ、クロカワカビは石鹸を栄養素とした培地には生育したものの、合成洗剤のみを栄養源とした培地には生えませんでした。

一方、スコレコバシティウムは合成洗剤培地によく生育しました。ただし、生育速度はクロカワカビよりかなり遅かったそうです。

 

また、洗濯乾燥機にもカビがよく生えるのですが、毎日乾燥機能を使う場合はかなりカビの生育率は少ないのですが、週1回以下の使用頻度の場合は非常にカビが多かったそうです。

日本では、電気代の節約を考えるためか、あまり乾燥機を使うことがなく、できるだけ天日乾燥を心がけ、雨天続きなどの時にたまに使うという家庭が多いようですが、その使い方では乾燥機内にカビが発生しやすいようです。

 

現在では、エアコンに大量にカビが生えるということは常識となっていますが、昔はそれに気付かれなかったようです。

著者が1992年に調査結果を発表してようやく一般に知られるようになりました。

冷気が結露を呼び、そこにカビが生えやすいということですが、最初はその結果発表にメーカーからさんざん嫌味を言われたそうです。

ただし、エアコン自体にはカビが生えるものの、それ以外の室内はエアコンの作用で乾燥するためにかえってカビの発生が少なくなるそうです。

 

 

浴室にもカビが生えやすいということは常識ですが、そのカビが何を栄養にして生きているのかは知られていないようです。

湯垢や石鹸カスといったものがカビの栄養になるように思う人も多いのですが、実際に浴室に多く見られるカビの生育試験をしてみると(こういった実験を数多く実施されているそうです。それもすごい)こういったものはカビの栄養にはならないようです。

 

浴室のカビも、洗濯機のカビと同様に洗剤の成分である界面活性剤を栄養として生育しています。

なお、肌に良いと言われるコラーゲンやハチミツ・オリーブオイルなどの成分を含む高給石鹸のほうが、普通の石鹸よりはるかにカビが生えやすいようです。

 

 

日本の発酵食品では、コウジカビを使う例が非常に多くなっています。酒、味噌醤油など伝統的にコウジカビが使われていますが、各地で調査してみても空気中にコウジカビが見れれることはほとんどありません。

他の青カビ、赤カビ、クロカワカビなどはどこでも多数分離されるのに比べ、コウジカビの少なさは興味を惹かれます。

これは、ごくまれに存在するコウジカビを日本人が選び出して利用していった歴史から来ていることです。

糖類の多い環境にしか存在しないコウジカビの中から、麹として使えるカビを選び出し育てていった日本の発酵産業の力だそうです。

 

いや、カビというのは本当に面白いものですね。

 

人類とカビの歴史 闘いと共生と (朝日選書)

人類とカビの歴史 闘いと共生と (朝日選書)

 

 

FOOCOM.NETで松永和紀さんが書籍紹介「おいしい病院食は、患者を救う」

いつも見ているFOOCOM.NETで松永和紀さんが「おいしい病院食は、患者を救う」という書籍を紹介しています。

 

www.foocom.netこの本は、サイエンスライターの薬袋摩耶(みない・まや)さんが著者で、監修者として以前はこのFOOCOM.NETで執筆していた、現在は鈴鹿医療科学大学副学長の長村洋一さんも関わっておられるということです。

 

病院食といえば美味しくないというのが常識?のようになっていますが、特に長期入院の患者や老人にとっては、食事を美味しく食べられるかどうかということは治療の効果を上げるという意味でも非常に大きな影響を持つと言われており、その方面で先進的な取り組みをされている栄養士や医師の方もいらっしゃるようです。

 

この本も主要部分は著者の薬袋さんがそういった方々にインタビューしたものをまとめたものだということです。

 

私も怪我などで入院したことはありますが、あまり食事が美味しかったというイメージは持っていません。(というか、その全く逆です)

これじゃ治る怪我も治りが遅くなると思っていたほどです。

 

ただし、一部に力を入れられている方も居る一方、記事内にも触れられているように、管理栄養士が就職する際には病院は人気が薄くドラッグストアなどの方に流れてしまうとか。

もしもの入院時に食事が楽しみにできる状況にはまだまだなりそうもありません。

 

なかなか面白そうな書籍だと思います。いつもの図書館に購入希望を出してみようか。

イオン飲料の飲み過ぎは健康被害 特に乳幼児は注意

週1回更新の度に食品問題について新たなニュースを教えて貰える、渡辺宏さんの「安心?!食べ物情報」ですが、今回は「イオン飲料」の危険性について紹介されていました。

 

http://food.kenji.ne.jp/review/review920.html

 

イオン飲料とは、スポーツドリンクなども含むような、カリウムやカルシウムといったイオンが添加してあるもので、脱水時の水分補給には適していると言われているものです。

しかし、それが単に「健康的」というイメージにつながるために、水代わりに常時飲むということになると、特に乳幼児などには危険性があるそうです。

 

詳しくは元記事の引用文を読んでいただいたほうが間違いないと思いますが、下痢や嘔吐の際の水分補給に限っては、適度な塩分と糖分を含むために有用なのですが、それを常用していると塩分過多、糖分過多になり、ビタミンB1不足につながったり、虫歯の発生につながるという可能性が強くなるそうです。

さらに、幼児の場合は味覚異常を引き起こす可能性もあるとか。

 

イオン飲料は脱水時の緊急水分補給にとどめ、よくなったら水を飲ませるというのが良いようです。

 

それにしても、「身体に良い」というイメージが出来上がってしまうとそれに強く影響される人が多いことにはあきれるほどです。

他にも「身体に良い食品」に振り回されて結局は健康を損なってしまう人が多数いるようです。

そういった食品を売ろうとしてのイメージ戦略なのでしょうが、消費者側も「身を守る」という意識で考えなければなりません。

 

しかし、どうも日本は政府行政機関がそういった危険情報をきちんと流して解説するということがほとんど無いようにも思います。

かえって、経済活動活性化とかいう名のもとに企業寄りの姿勢が強いようにも思います。

政府がどこを向いているのかということも分からなければなりません。

「アジアのなかの琉球王国」高良倉吉著

かつての琉球王国はアジア各地との交易を行ない栄えていたというイメージがありますが、その具体的な中味についてはほとんど知りませんでした。

 

この本はその中国の明王朝への進貢を通して交易国家の繁栄を手に入れた歴史とその実態を詳細に語っています。

そして、それが終わりを告げたのも薩摩による支配を受けたからというよりは、アジア全体の貿易の構造が変わったためであったということも知ることができました。

 

 

1372年、新たに中国を統一した明王朝から、琉球の中部にあった中山国に使節が訪れます。

その団長は楊載といい、中山国王察度(さっと)に対し明の洪武帝からの言葉を伝えました。

それは、元の支配を退け新たに中国を統一した明へ入貢を勧めるというものでした。

それに対し、察度王は使者を派遣して入貢することとしました。

 

これを持って、明と琉球とは冊封関係を結び進貢をする(定期的に頁物を捧げ、その代わりに大量の下賜品を受け取る)ような公的な関係を結ぶようになるわけです。

それ以前にも私的な貿易船が琉球を経由し日本から中国まで行き来することはあっても、進貢貿易のような大掛かりで公的なものではありませんでした。

そうして、アジアの交易国家としての繁栄の基が築かれるわけです。

 

その後、中山国に代わって山南の系統の尚氏が琉球を統一したのですが、明に対しては琉球中山の名称のまま冊封体制に加わりました。

そしてそれが琉球の中継貿易による繁栄の時代を作り出していった体制となるわけです。

 

明帝国は基本的には自由な貿易を許さない海禁の国でした。

そして周辺の国とは冊封体制と進貢とで結びついていました。

冊封体制とは、周辺国が代替わりの度にそれを明に認めてもらうことで権威を得ること。そして進貢は数年に一度、明に頁物を捧げそれに数倍の下賜物を貰うことでした。

 

進貢の際は入港できる港が決まっており、琉球福建省泉州(その後福州)のみと決められていました。

進貢船はその港に留められ、琉球王の使節のみはそこから数千kmの道を北京に向かうのですが、その船には進貢物以外の商品も多数積まれており、残された船員たちは使節が帰ってくるまでの間にその品物の取引を行なっていたようです。

 

進貢の頻度は明により厳しく決められており、日本は10年に1度、安南やジャワは3年に1度でしたが、琉球は2年に1度(初期は毎年)と極めて優遇されていました。

明代の270年間に、琉球からの進貢回数は171回と、2位以下を大きく引き離しての1位でした。

さらに、明の海禁政策のために中国商人が直接商売に出かけることが制限されていたため、進貢を絡めての東南アジア貿易の主体を琉球が握ることとなりました。

 

中国商人も表に出ることはできなかったものの、琉球の影に隠れての活動をしていました。これが、琉球で言うところの「久米村人」でした。那覇近くの久米村に主に福建からの中国人が多数居住し、商業や造船・航海などに携わりました。

 

このような琉球の海外貿易も16世紀に入ると陰りが見え始めました。

朝鮮ルートの交易は日本の商人に奪われました。

さらにポルトガルがマラッカを占領し、その影響が強くなりました。

また、中国自体の変化も大きく、海禁政策を取っていた明帝国が国力を急激に落とし、その統制が取れなくなりました。

そのため、中国商人が大手を振って直接交易に出向くことができるようになりました。

こうして、琉球の中継貿易の役割は低下したところに、さらに薩摩軍の侵攻ということが起こり、琉球の地位は急落してしまいました。

 

なお、薩摩の侵攻があまりにも簡単に成功したのは、琉球が武器を持たなかったからだという説が広く信じられていますが、実際は国防の軍備は持っていたようです。しかしその訓練もされずほとんど軍事力は持ち合わせていなかったので敗れたそうです。

 

この本の基にもなった「歴代宝案」という、当時の記録は琉球王国で2部作られ、首里城と久米村に保管されていたそうです。

しかし、首里城のものは日本が併合した際に東京に持ち去られました。そしてそれは関東大震災で焼失、久米村のものも沖縄戦で失われました。

それで全く無くなってしまうところだったのが、台湾や中国に写しが存在することが明らかになり、ようやくその内容を知ることができたそうです。

 

そこにも琉球が中国と日本との間の架け橋のような存在であったということが分かるのでしょう。

 

アジアのなかの琉球王国 (歴史文化ライブラリー)

アジアのなかの琉球王国 (歴史文化ライブラリー)

 

 

「再生可能エネルギー」も「エネルギーゼロ生活」も無い理由

何度もここで書いていますが、もう一度強調しておきたいと思います。

 

太陽光発電風力発電を「再生可能エネルギー」と称したり、単に太陽光発電パネルを屋根に載せただけで「エネルギーゼロ住宅」などという宣伝にあふれていますので、それに影響を受けている人も居るかもしれません。

 

エネルギーというものは、形を変えて高いところから低いところへ流れていくだけで決して「再生」するものではありません。

 

しかし現実的には、この地球の周辺のエネルギーというものを考える上ではそういった基本原理まで戻るのではなく、膨大な「太陽エネルギーの流れ」というものを考えることで、人間にとっては事実上永遠と見える時間でのエネルギーの流れというもを近似的に考えることができるでしょう。

 

地熱や放射性物質は直接は太陽エネルギーの流れとは関係ありませんが、量的には少ないのでこの場では触れません。

 

太陽から降り注ぐエネルギーが形を変えて植物になったり、雨水となったり、風となったりして地球全体を動かしています。

これらは森林などでは若干の蓄積をしますが、ほぼ短い時間の中で流れていくものです。

人間の営みも、産業革命化石燃料を大規模に使い出すまではこのような短い時間の周期の中で行われるものでした。

 

それが、石油や石炭という数千万年から数億年前に大量の藻類や樹木が作り出した炭化水素を地中に蓄積した化石燃料を使いだしたことで、人間を取り巻く環境は激変しました。

温暖化や環境汚染といった地球環境の悪化をもたらしました。

 

これを問題視した人々が、化石燃料の使用を避けようとしたのが「再生可能エネルギーの使用」です。

これに含まれるのが、太陽光発電や太陽熱利用、風力発電などのものです。なお、地熱発電潮汐発電、さらには原子力発電まで一緒に考えるという動きもありますが、これらは別のものと考えるべきでしょう。

 

本当にこれらが「太陽エネルギーの流れ」の中でのみ存在し、完結していれば文字通りに「再生可能エネルギー」と称しても構いません。

しかし、そう上手くは行かないもので、これらの設備は算出できるエネルギーに対して巨大であるために、(言い換えれば大したエネルギーは算出できないということですが)の製造や維持管理、廃棄までの莫大なエネルギーを取り戻すことができるかどうか疑問であるということが一番の問題点です。

 

一つ想像してみてください。

周りから一切のエネルギー流入の無い離れ小島に、太陽光発電装置を備えた「太陽光発電装置製造工場」があるとします。

そのエネルギー源は工場に付設した太陽光発電そうちのみ。そこから産まれたエネルギーだけでこの工場を操業させることができるでしょうか。

もちろん、十分な数の発電装置を備えておけば工場操業に必要な電力は得られるでしょう。しかし、それに必要な「発電装置」を作る電力はどうやって作るのでしょう。

しかも、それだけ広大な土地に作った発電設備も工場操業だけで精一杯です。他の社会に電力供給する分はさらに別に必要となります。

 

結局は、現在の太陽光発電装置なるものはほとんどすべてを化石燃料火力発電所の生み出す電力に依存しているということです。

再生可能エネルギー」なんて称しているものも全然「再生できていない」と私が主張するのはこのためです。

 

 

「エネルギーゼロ住宅」なんていうのは、「再生可能エネルギー」よりさらにレベルの低い宣伝文句ですので、あえて取り上げる気も起きません。

単に「購入電力がゼロ」というだけのことでしょうし、それも穴だらけの計算では批判するのもアホらしくなります。