爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「再生可能エネルギー」も「エネルギーゼロ生活」も無い理由

何度もここで書いていますが、もう一度強調しておきたいと思います。

 

太陽光発電風力発電を「再生可能エネルギー」と称したり、単に太陽光発電パネルを屋根に載せただけで「エネルギーゼロ住宅」などという宣伝にあふれていますので、それに影響を受けている人も居るかもしれません。

 

エネルギーというものは、形を変えて高いところから低いところへ流れていくだけで決して「再生」するものではありません。

 

しかし現実的には、この地球の周辺のエネルギーというものを考える上ではそういった基本原理まで戻るのではなく、膨大な「太陽エネルギーの流れ」というものを考えることで、人間にとっては事実上永遠と見える時間でのエネルギーの流れというもを近似的に考えることができるでしょう。

 

地熱や放射性物質は直接は太陽エネルギーの流れとは関係ありませんが、量的には少ないのでこの場では触れません。

 

太陽から降り注ぐエネルギーが形を変えて植物になったり、雨水となったり、風となったりして地球全体を動かしています。

これらは森林などでは若干の蓄積をしますが、ほぼ短い時間の中で流れていくものです。

人間の営みも、産業革命化石燃料を大規模に使い出すまではこのような短い時間の周期の中で行われるものでした。

 

それが、石油や石炭という数千万年から数億年前に大量の藻類や樹木が作り出した炭化水素を地中に蓄積した化石燃料を使いだしたことで、人間を取り巻く環境は激変しました。

温暖化や環境汚染といった地球環境の悪化をもたらしました。

 

これを問題視した人々が、化石燃料の使用を避けようとしたのが「再生可能エネルギーの使用」です。

これに含まれるのが、太陽光発電や太陽熱利用、風力発電などのものです。なお、地熱発電潮汐発電、さらには原子力発電まで一緒に考えるという動きもありますが、これらは別のものと考えるべきでしょう。

 

本当にこれらが「太陽エネルギーの流れ」の中でのみ存在し、完結していれば文字通りに「再生可能エネルギー」と称しても構いません。

しかし、そう上手くは行かないもので、これらの設備は算出できるエネルギーに対して巨大であるために、(言い換えれば大したエネルギーは算出できないということですが)の製造や維持管理、廃棄までの莫大なエネルギーを取り戻すことができるかどうか疑問であるということが一番の問題点です。

 

一つ想像してみてください。

周りから一切のエネルギー流入の無い離れ小島に、太陽光発電装置を備えた「太陽光発電装置製造工場」があるとします。

そのエネルギー源は工場に付設した太陽光発電そうちのみ。そこから産まれたエネルギーだけでこの工場を操業させることができるでしょうか。

もちろん、十分な数の発電装置を備えておけば工場操業に必要な電力は得られるでしょう。しかし、それに必要な「発電装置」を作る電力はどうやって作るのでしょう。

しかも、それだけ広大な土地に作った発電設備も工場操業だけで精一杯です。他の社会に電力供給する分はさらに別に必要となります。

 

結局は、現在の太陽光発電装置なるものはほとんどすべてを化石燃料火力発電所の生み出す電力に依存しているということです。

再生可能エネルギー」なんて称しているものも全然「再生できていない」と私が主張するのはこのためです。

 

 

「エネルギーゼロ住宅」なんていうのは、「再生可能エネルギー」よりさらにレベルの低い宣伝文句ですので、あえて取り上げる気も起きません。

単に「購入電力がゼロ」というだけのことでしょうし、それも穴だらけの計算では批判するのもアホらしくなります。