爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「内田樹の大市民講座」内田樹著

内田さんの著書は前に読んだことがありますが、なかなか筋の通った思想家という雰囲気です。

sohujojo.hatenablog.com

この本は内田さんが「AERA」に6年半にわたって月2回連載していた「900字コラム」をテーマごとに並べ替えてまとめたものです。

 

あとがきにも書かれていますが、「900字」という文章は簡単に書いて終わりというものではなく、「いささかの工夫がいる」とのことです。

ワンテーマを取り出してそれに寸評をつけただけでは字数が余る。しかし主題を論じて複雑な思弁を弄するには字数が足りない。という程度だそうです。

そこでどうするかと言えば、冒頭にあるテーマを提示して、「今日はこんな話をします」と出したら読者が「じゃあこうなるかな」と思った方向には絶対に書かないことだそうです。

 

まあそのテクニックはともかくとして、政治経済から教育、国際関係等々いろいろな方面に興味深い話を一味ぴりっと効かせて語るという、短文ながらなかなか手の込んだ、味わいのあるものとなっています。

 

そのような文章や構成の手練手管は実際にこの本に触れてもらわなければわかりませんが、内容で興味惹かれたところだけを抄録しておきます。

 

成果主義能力主義のブームがようやく終わったようだが、「眼の前の成果に対して即金で報酬を与える」というモデルに基いているので、「待つ」ことができない。

それに対し終身雇用・年功序列の美点は「育つまで時間がかかる人」を放し飼いにしておけることである。ただし、さっぱり仕事のできない若者が「ただの無駄飯食い」か「大器晩成」かは長い時間が経たないと分からない。

 

上手いですね。ワクワクするほど。

 

☆某出版社から雑誌のコンセプトについて相談を受けた。「どういった読者をターゲットにすればよいか」というから「それがいけないんじゃないの」と答えた。

ターゲットを細分化しそれに合わせようとすると読者の集団の消長に左右されるだけだ。

 

ごもっとも。なんですが。

 

原水禁世界大会でオリバー・ストーンが日本の戦後政治をきびしく批判するスピーチを行なった。しかし日本のマスメディアはこのことをまったく黙殺した。

トーンは「日本は戦後すばらしい映画・音楽・食文化を示したが、ただ一人の政治家も総理大臣も平和と道徳的な正しさを代表したところを見たところがない」と語り、さらに「日本はアメリカの衛星国であり従属国に他なりません。あなたがたは何のためにも戦っていない」を続けた。

 

☆世界的に格差拡大と若者の雇用悪化が続いている。世界中で同じ抗議運動が広がっているということは、全世界的に同様の社会状況が生じていることを示している。

にも関わらず、日本の政治家や財界・メディアは「さらなるグローバル化」と唱えるばかりである。

しかし、この20年の状況を見てみればグローバリストたちが「ここに資源を集中せよ」と強調する「ここ」とは「彼ら自身のところ」に他ならないということだ。

 

内田樹の大市民講座

内田樹の大市民講座

 

 短文ながらきれいに論点をまとめ、さらに読者にちょっとした驚きを示すという、非常に高度な芸を見せてくれました。

 

”賀茂川耕助のブログ”を読んで No.1189 日本社会むしばむ税制

賀茂川さんのブログ最新記事は「日本社会をむしばむ税制」です。

kamogawakosuke.info政権がどこを向いて仕事をしているか、推進している税制を見ればわかると思うのですが、あまりそれを認識している人は多くはないように思います。

 

賀茂川さんもそれを強調したいようです。

 

有効求人倍率はバブル期超え、「完全雇用状態」のようですが、その内実は非正規雇用やパートなどの低収入職であり、家計の窮乏はますます悪化しています。

 

記事冒頭に記されているように、公共料金の値上げや食料品値上げ等が起きているにも関わらず、家計の消費支出は低下しています。

これは、実質的な生活水準がどんどんと落ち続けていることを表していると思いますが、政策の成果を誇りたい政権はあまり問題化したくないようです。

 

こういった現状のおかしさの原因というものが、本記事主題の「税制」であるということです。

消費税の重圧というものがのしかかっていますが、これを社会保障に充てるという口約束はホゴにされ大企業法人税の減税や高所得者所得税減税の原資とされてしまいました。

富裕層にいくら金を回してやってもこぼれ落ちては来ないことはこの数十年の結果で明らかです。

 

「あるべき税制の姿」として、賀茂川さんが挙げておられる件については私も大賛成です。

すなわち、株の売買に課税する「株式取引税」や海外為替取引に課税する「外国為替取引税」です。

 

このような税制に対しては経済活性化を損なうなどという反対がありますが、とんでもない言いがかりです。

今の税制はせいぜい「投機活性化」をしているに過ぎず、本当の意味で「経済活性化」をするのなら「投機課税」をして消費税廃止、社会福祉予算増額というのが正しい方策でしょう。

それができないのは投機家に「首相のお友達」が多いから?

お酒の話 酒会社での体験 その3 乙類焼酎の品質向上

定期的に書いていこうと思っていたお酒の話ですが、政治の方がドタバタですっかり間が空いてしまいました。

 

勤めていた会社でも本格焼酎(乙類焼酎)を作っていくこととなったのですが、先行する老舗の会社の作る焼酎との品質差はなかなか埋めることが難しいものでした。

 

焼酎および日本酒の製造では、各地方を管轄する国税局がその品質を調査し優良品を表彰する「酒類鑑評会」というイベントを開きます。

清酒では関東信越国税局や大阪国税局の鑑評会がレベルが高いのでしょうが、本格焼酎の分野では何と言っても熊本国税局が国内では(ということは世界で)一番でしょう。

管轄する県が、大分県熊本県、宮崎県、鹿児島県ですので、米・麦・芋焼酎のトップブランドが揃っているところです。

 

酒類鑑評会に参加する酒は市販品そのものでなくても良いことになっています。

そこで、各社ともこれに応募する酒は特別な製法であったり、原料を吟味したりといったことをするようです。(そうではないという会社もあり、「ウチは市販品そのまま出しています」というところもありました。本当かどうかはわかりませんが)

年に一回、3月に審査があり、確か4月頃に表彰会ならびに公開利き酒会が開かれます。

平成29年酒類鑑評会結果|熊本国税局|国税庁

今年の結果を貼り付けておきます。

酒造会社でこれに出品しないところがあるという話は聞いていませんので、合格していないところは落選したのでしょう。意外なところの名前が無いということがあるかもしれません。

 

焼酎の製造は、製造量と製造能力のバランスの問題もあり、だいたい売れるとすぐに足りなくなる、逆に売れなければ原酒が余るといったことがよく起きます。

私が担当していた頃は、結構売れ行きは伸びているところだったので、原酒不足に悩まされ、各地の酒造会社から原酒購入(いわゆる「桶買い」)をしていました。

 

とは言え、簡単に売ってくれるはずもなく何度も頼んでようやく関係を築いてといったことがありました。

その売ってくれた酒造会社というのが、上記の鑑評会の合格常連会社だったりするわけです。

つまり、技術的には向こうがはるかに上だけれど、一応こちらが購入側なので少し立場が強いという、複雑な関係でした。

 

そういった会社には何度も足を運び製造工程などをチェックさせてもらいましたが、(本当はチェックなどと偉そうなことを言えるはずもなく、ひたすら勉強させてもらう状況でした)会社規模は小さくてもきちんとした製造工程ができるような体制で操業されており、さすがはと感心したものです。

 

しかし、会社に戻って実際の自分たちの製造はどうかというと、なぜかは分からないままですが「辛い、厚みがない、丸くない」という欠点が目につくものでした。

 

勤めていた会社の仕事では、微生物の基礎研究というのも確かに面白かったのですが、この焼酎の品質向上という仕事は退職した今でも懐かしく思い出されるものです。

 

なお、引退後の今では後輩たちが一所懸命作っているとは思っていても、本当に美味しいと思える他社の焼酎を飲むようになってしまいました。ごめん。

「ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ」根井雅弘編著

ノーベル賞は毎年10月になると話題になりますが、その中に「ノーベル経済学賞」というものがあるのが、何か異質な感じがしていました。

 

実は、ノーベル経済学賞と一般に呼ばれているものは、正式には「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」というもので、1968年にスウェーデン国立銀行が創立300年を迎えた時にノーベル財団に働きかけて作ったものです。

その選考に他のノーベル賞と同じように、スウェーデン王立科学アカデミーが当たっているためにノーベル経済学賞というもののように思われがちですが、あくまでもノーベル記念賞であるということです。

 

ノーベル経済学賞(こっちの名称の方が使いやすいので)はその創設当初にはすでに経済学界にはサミュエルソンやヒックスといった超大物が揃っており、その誰から授ければ良いのかという順番だけの問題と言われていたそうですが、その後は大物には行き渡り各部門の専門家と言われる人たち(他の部門からは誰だかよくわからない)に広がっていきつつあるようです。

 

そういった、ノーベル経済学賞の受賞者の紹介を、京都大学大学院経済研究科教授の根井さんが中心となり、その後輩や教え子といった京大経済出身者の人たちが書いているのがこの本です。

 

第1期とも言える、1969年から1979年は現代の経済学の基礎を作ったパイオニアたちです。

サミュエルソンやヒッグス、ハイエクフリードマンなど、私のような経済学音痴のものにも聞いたことがあるような人々が次々と受賞しました。

 

第2期の1980年代は、実際の政治で新自由主義が採用され力を発揮する時代でもあり、ノーベル経済学賞もそれを反映させるものとなっています。

ただし、自由市場主義者だけが選ばれたわけではなく、ケインジアンバランスよく授賞させるという、ノーベル賞委員会らしい気配りの選考となっています。

また、すべての国際金融取引に定率の税を課すという「トービン税」提唱者のトービンもこの時期に受賞しています。

 

1990年代の第3期となると、これまでの経済学の枠組みには入らないような人々の受賞も続くようになります。

金融工学を扱った、マーコウィッツやシャープ、ミラー、ゲーム理論のコース、ノース、フォーゲルといった人たちの受賞には、経済学者からの批判もあったようです。

 

2000年代以降は、誰もが認めるような経済学界の巨匠という人々の受賞が一段落し?、それ以外の専門分野の功労者の受賞に移行します。したがって、ちょっと違う分野の人々からは名前も知らないといった批判が起きることも出てきます。

ただし、こういった状況は他の自然科学系のノーベル賞では最初から起きている事態でありそれほど変なわけではありません。

1995年には王立科学アカデミーがノーベル経済学賞の受賞対象分野を経済学に限らないという方針公表をしていますので、それに沿ったものであるといえます。

ただし、現在でも歴史学政治学は受賞対象とはなっていませんので、すべての社会科学とはなっていないようです。

 

これまでのところ、あまりにも左翼的な経済学者は除かれていると言われていますが、しかし経済学全体を広範囲に見た中から選ばれているとは言えるようです。

現代の経済学というものを見ていくにはノーベル賞受賞者を調べるのはある程度有効な手段と言えそうです。

 

ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ (講談社選書メチエ)

ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ (講談社選書メチエ)

 

 

東京都議会議員選挙 都民ファースト勝利、自民大敗

注目されていた東京都議会議員選挙は、小池知事の率いる都民ファースト勝利、支持政党の公明党(これが不思議)などを含めて過半数を獲得したのに対し、自民党は23議席に留まるという歴史的な大敗となりました。

headlines.yahoo.co.jp

自民党が大敗というのは喜ばしい話ですが、それで伸びたのが何をするのかいまだに不明の都民ファーストと、機を見るに敏というだけの公明党では、目出度さも中くらいなりとまでも行かないものです。

 

自民党は都議会がというよりは、安倍政権のスキャンダルが原因で大きく負けたということでしょう。

昨日のブログで「下村氏がスキャンダル暴きは選挙妨害だと主張」したことを批判しましたが、実際に自民党候補者たちの選挙を妨害したのは下村氏本人であることは明白であり、都連会長辞任だけでは落選候補者たちの気がすまないでしょう。

さらに十分に気が済むまでの償いを求めるべきです。

 

しかし、それにしても安倍政権の凋落がスキャンダルからというのは、実は困った話です。彼らの客引きアトラクションそのものであるアベノミクス自体が日本の国富を流出させ、儲けたい奴らだけを儲けさせるものであるという、実態そのものが問題とされたのではないからです。

これでは、この先安倍政権自体が崩壊したとしても再びアベノミクス的な政策に魅力を感じる人が出てくるでしょう。

 

さて、負けた方はともかく、勝った都民ファーストですが、小池知事が就任より1年経過、豊洲市場移転でドタバタしている以外に何をしたいのかよく分からないままです。

もしかしたら、九州の片田舎まではニュースが伝わらないけれど、東京現地では肌身に感じられる改革が起きているのでしょうか。それなら良いのですが。

(なんちゃって、そんなこと無いでしょうが)

 

大阪都構想とばかり言うだけの維新と同じように見えるのは私だけでしょうか。

 

ともかく、政治路線は保守そのもの、多少細部にこだわりを見せるものの大筋は変わりなしでしょう。

 

このブームで議員に入り込んだ連中が、とんでもないことをやるというのもお決まりの路線です。小泉チルドレンに始まり、トップのブームに乗って当選しただけの新人議員の中にはかなり変なのも混じっているのは間違いないでしょう。

 

まあ、「都民ファースト」という名前が示すように国政進出ということは無いのかもしれませんが、そうなるとどのように影響力を及ぼそうとしているか、考えているのでしょう。

 

まあ、混乱の種ばかりで、この先さらに混迷しそうという結果に終わった都議選でした。

「分類思考の世界」三中信宏著

ここで言う「分類」とは生物種の分類のことを指します。

 

私もかつての会社勤め時代の研究所在籍時には、微生物の分類同定ということをやっていたということがあり、生物の種の分類というものがどういう状況になっているかということには興味があるのでこの本を読んでみました。

 

しかし、そのような私でもこの本の内容は非常に難しいものでした。

まず、「生物種」というものは何か、それは一群をなしているものかどうか、生物種というものは生物進化の過程で変わっていくものなのか、変わったとしたらどこまでが群か等々、哲学的な表現が次々と連続して出現し、すっかり頭が混乱してしまいました。

 

生物の近代の分類学ギリシャローマ時代にも分類学はありました)の父と呼ばれるのは、18世紀スウェーデンの植物学者、カール・フォン・リンネです。

リンネの定めた生物の群分けはいまだに基本的には踏襲されており、学名の命名法もリンネの定めた方法によっています。

 

分類学者はまた「博物学者」とも呼ばれました。かつては新発見の植物や動物を蒐集し、分類するということで、多くの人材を集めていたのですが、最近では分類学ということを目指す科学者は極めて稀になりました。

かつて、1990年代に著者は日本学術会議の下部委員会で分類学に関係する研究者のリストを作ったことがあるそうですが、その時点ですでにほとんど存在せず、分類学者自体が「絶滅危惧種」であったそうです。

 

 

生物を分類していこうという、分類学でもっとも大きな問題は、対象物のグループが何を表しているかという疑問だそうです。

アメリカの進化学者エルンスト・マイアは1942年に出版した本の中で、「生物進化の基本単位は生殖的に隔離された生物集団」であると定義しました。

すなわち、有性生殖によって血縁的に結びついた一群が生物学的種であるということです。

 

しかし、この定義に対して無数の反論が続出しました。当然ながら無性生殖をする生物にはこの定義は役立たず、そういった多数の生物はどうするかということも触れていません。

そのため、無性生殖生物を研究対象とする研究者たちは別の種概念を提唱することになります。

現在まで20以上の種概念が知られているそうです。

 

しかし、ここでも本質を問い直す議論がまた姿を表します。「種というものは本当にあるのだろうか」

 

生物というものはどんどん変化していきます。「私」という生物すら、昨日の私と今日の私は同一ではありません。ましてや、「私」と「私の子」は同一の生物ではありません。ただし、普通にはそれは「同種」ではあると認識されます。

本当にそうでしょうか。生殖と発生の過程では常に変異がつきものです。だからこそ進化もするのですが、変異しても同種と言えるのでしょうか。

 

しかし、「進化するものが種である」という説も紹介されます。

ここまで行くと頭がついていきません。

 

本書の議論はさらに続いていきますが、どうもさらに深みにはまるばかりのようです。

 

分類思考の世界 (講談社現代新書)

分類思考の世界 (講談社現代新書)

 

 

下村博文自民党幹事長代行の加計問題での態度がひどいこと

下村博文自民党幹事長代行(元文部大臣)が、加計学園から200万円の献金を受けたにも関わらず、政治資金規制法による収支報告書に記載がないとして、週刊文春が報じた事に対し、下村氏本人は強く否定。そればかりか選挙妨害に当たるとか、名誉毀損で告訴とか、情報漏えい者を告発とか、逆ギレし放題だったようです。

www.huffingtonpost.jp

まあこれだけキレるのはよほどやましいことがあるのだろうと感じるのが普通の反応でしょうが、まあそこは推測だけですのでこれ以上は言いません。

 

自民党政治家の昨今の行動は多数の横暴、驕りとしか言えませんが、どこがおかしいのか整理しておきましょう。

 

加計学園秘書室長が200万円を下村氏側に渡したというのは事実のようです。

しかし、それは「11名の人からの献金であり、それぞれ20万円未満であった」というのが下村氏側の言い分です。

かのお手盛りザル法というその名も高い政治資金規制法ですが、20万円を越えるパーティー券献金は収支報告書に記載することと定められています。

 

誰もが感じることですが、「では、20万円以上の献金があっても、何人分かに分割して架空の名前で献金したことにすればいいんじゃない」という抜け道は当然ながらあるでしょう。

その最低限の歯止めとして「パーティー券をあっせんした者の名前を記録すること」とあるようです。

これが無かったということは、上記の抜け道を使ったのではと疑われても当然のことです。

 

もしも、そうでないと言い張るのなら、その立証義務は当然下村氏側にあります。

その11名が実在しているということを証拠とともに示せば良いというだけのことです。

 

その名を明かすことはプライバシー侵害になるなどと訳の分からないことを言っているようですが、下村氏に献金したということは、それほど恥ずかしいことなんでしょうか。

まあ、私がもししていたら死ぬほど恥ずかしいことだと感じるでしょうが。

 

 

政治資金規制法など、法律に従っているから正しいなどとは到底言えないザル法であることは事実です。

それにすら違反していたとしたら論外ですが、そうでなかったとしても、下村氏のやるべきことは「法律には従っていましたが、政治家としての道義上許されないことをしましたので、議員を辞職し政治からは離れます」と言うべきでしょう。

 

なお、ついでに言えば数々の問題についての首相の取るべき道も同様です。

「法律上は問題ないが(そういう風に作ってるんだもん)政治家として、首相として道義上許されないことをしてしまった。責任を取って首相を辞任するとともに、議員も辞職して政界からは引退する」というのが、彼の名誉を守り歴史に名を残す(悪名ではなく)唯一の道です。

 

(なお、これはついでながら韓国に関する問題でも同様です。なぜ道義的責任が法的責任より弱いように思っているんでしょう。逆なのに)