かつての琉球王国はアジア各地との交易を行ない栄えていたというイメージがありますが、その具体的な中味についてはほとんど知りませんでした。
この本はその中国の明王朝への進貢を通して交易国家の繁栄を手に入れた歴史とその実態を詳細に語っています。
そして、それが終わりを告げたのも薩摩による支配を受けたからというよりは、アジア全体の貿易の構造が変わったためであったということも知ることができました。
1372年、新たに中国を統一した明王朝から、琉球の中部にあった中山国に使節が訪れます。
その団長は楊載といい、中山国王察度(さっと)に対し明の洪武帝からの言葉を伝えました。
それは、元の支配を退け新たに中国を統一した明へ入貢を勧めるというものでした。
それに対し、察度王は使者を派遣して入貢することとしました。
これを持って、明と琉球とは冊封関係を結び進貢をする(定期的に頁物を捧げ、その代わりに大量の下賜品を受け取る)ような公的な関係を結ぶようになるわけです。
それ以前にも私的な貿易船が琉球を経由し日本から中国まで行き来することはあっても、進貢貿易のような大掛かりで公的なものではありませんでした。
そうして、アジアの交易国家としての繁栄の基が築かれるわけです。
その後、中山国に代わって山南の系統の尚氏が琉球を統一したのですが、明に対しては琉球中山の名称のまま冊封体制に加わりました。
そしてそれが琉球の中継貿易による繁栄の時代を作り出していった体制となるわけです。
明帝国は基本的には自由な貿易を許さない海禁の国でした。
そして周辺の国とは冊封体制と進貢とで結びついていました。
冊封体制とは、周辺国が代替わりの度にそれを明に認めてもらうことで権威を得ること。そして進貢は数年に一度、明に頁物を捧げそれに数倍の下賜物を貰うことでした。
進貢の際は入港できる港が決まっており、琉球は福建省の泉州(その後福州)のみと決められていました。
進貢船はその港に留められ、琉球王の使節のみはそこから数千kmの道を北京に向かうのですが、その船には進貢物以外の商品も多数積まれており、残された船員たちは使節が帰ってくるまでの間にその品物の取引を行なっていたようです。
進貢の頻度は明により厳しく決められており、日本は10年に1度、安南やジャワは3年に1度でしたが、琉球は2年に1度(初期は毎年)と極めて優遇されていました。
明代の270年間に、琉球からの進貢回数は171回と、2位以下を大きく引き離しての1位でした。
さらに、明の海禁政策のために中国商人が直接商売に出かけることが制限されていたため、進貢を絡めての東南アジア貿易の主体を琉球が握ることとなりました。
中国商人も表に出ることはできなかったものの、琉球の影に隠れての活動をしていました。これが、琉球で言うところの「久米村人」でした。那覇近くの久米村に主に福建からの中国人が多数居住し、商業や造船・航海などに携わりました。
このような琉球の海外貿易も16世紀に入ると陰りが見え始めました。
朝鮮ルートの交易は日本の商人に奪われました。
さらにポルトガルがマラッカを占領し、その影響が強くなりました。
また、中国自体の変化も大きく、海禁政策を取っていた明帝国が国力を急激に落とし、その統制が取れなくなりました。
そのため、中国商人が大手を振って直接交易に出向くことができるようになりました。
こうして、琉球の中継貿易の役割は低下したところに、さらに薩摩軍の侵攻ということが起こり、琉球の地位は急落してしまいました。
なお、薩摩の侵攻があまりにも簡単に成功したのは、琉球が武器を持たなかったからだという説が広く信じられていますが、実際は国防の軍備は持っていたようです。しかしその訓練もされずほとんど軍事力は持ち合わせていなかったので敗れたそうです。
この本の基にもなった「歴代宝案」という、当時の記録は琉球王国で2部作られ、首里城と久米村に保管されていたそうです。
しかし、首里城のものは日本が併合した際に東京に持ち去られました。そしてそれは関東大震災で焼失、久米村のものも沖縄戦で失われました。
それで全く無くなってしまうところだったのが、台湾や中国に写しが存在することが明らかになり、ようやくその内容を知ることができたそうです。
そこにも琉球が中国と日本との間の架け橋のような存在であったということが分かるのでしょう。