中国の春秋時代、晋の国の君主として覇者となった文公重耳の一生を描いた作品です。
春秋時代は周王朝の威信は衰え各国が武を競うようになりました。
そんな中で諸国を武力と信義で統制したのが覇者と言われたのですが、「春秋の五覇」と言われる覇者たちが有名です。
その中でも斉の桓公と並んで晋の文公は覇者の中でも最も優れた業績を挙げたと言われています。
そんな文公重耳ですが、その一生は紆余曲折の連続で波乱万丈とも言えます。
この上巻では重耳の生まれた曲沃の晋公室の分家が本家を亡ぼすまで、重耳が生まれる以前から青年となるまでを描きます。
晋公室は翼と言われる都を本拠としていたのですが、重耳の高祖父、成師の時に分家を許され曲沃に配されました。
そこから徐々に力を蓄え、翼の本家をしのぐほどとなり、何度も武力をもって本家を討伐したのですが、そのたびに本家は復活します。
実は周王朝が一時衰退した時に晋公の先祖がそれを救ったことがあり、その恩義を忘れない周王朝により滅亡しかけても復活していたのでした。
しかし周王朝も大臣やそれより下の貴族たちにより勢力争いが頻発し、翼の晋公室本家への援助も薄れがちとなりました。
それを好機と見た曲沃の主、重耳の祖父称は翼への総攻撃を企て、様々な下準備を入念に行い決戦に向かいます。
その頃、曲沃の主はすでに老齢の称でしたが、その嫡子詬諸はすでに中年となっており息子も主なものに長子の申生、次子の重耳、三番の夷吾がいました。
それぞれ母親は別ですが、申生の母が正妃であり後継ぎとなるのはほぼ決まっていました。
重耳、夷吾は何もなければ後継者となることは無いのですが、それぞれ臣下を持つようになります。
ただし、重耳の臣下たちはそれほど有力なものはおらず、次男三男以下のあぶれ者ばかり。粗暴な集団と見なされていました。
しかし重耳の守り役として教育を受けもった郭偃の優れた指導で重耳も人格を磨いていきます。
翼を攻める決戦は初春といってもまだ北方の晋の国では雪と氷に閉ざされた時期であり、攻める曲沃軍は難しい戦いを強いられます。
ところが神の加護がある重耳は城下の河の神に捧げる魚を取ると瑞兆が見られるとのお告げによってそれを行うとたまたま城中から抜け出して他国に助けを求める秘密の使者が抜け道を通るところを発見し、そこを通って城内に攻め入ることを祖父に許され、いよいよ城内に攻め入り、翼の城主一族はこれで攻め滅ぼされることとなります。
ところが、曲沃がほぼ全軍を翼攻撃に出兵したことを知った強国虢が曲沃を狙って軍を動かします。
それを悟ったのが曲沃にわずかな兵と共に残った孤突で、出身の白狄の部族を率いて見事に虢軍を打ち破り曲沃の危機を救います。
(中巻に続く)