民謡というと、木曽節や八木節、五木の子守唄などが思い浮かびますが、そういった歌の中には意外に新しいものがあり、中には昭和になってから作られたというものもあるようです。
そういった民謡の歴史などについて、音楽学者であり特に日本民謡について研究してきた著者がおおまかな解説をしています。
これまでにもいろいろな解説がされていますが、そこでは大きな分類として次のように区分されています。
労作歌(仕事の中で歌われた歌)木こり歌、田植え歌、馬子唄など
祭り歌・祝い歌 寺院神社の祭りの歌、結婚祝い、正月歌など
踊り歌 神楽歌、獅子舞、
座興歌 座敷歌、新民謡などと呼ばれるもの
子守歌・わらべ歌
どうやら民謡と言われてイメージしてきたものは、宴会で座興として歌われてきたものが多いようですが、それに対して「本来の民謡」は何かと問いかけ直す動きがあり、そこでは仕事歌、祭り歌、子守歌など民間の中で生まれたものを評価する立場が強かったようです。
しかし、仕事歌などと言ってもその仕事が無くなってしまえば歌自体も無くなります。
田植えもしなくなる、馬や牛の運搬もなくなる、祭りも廃れるというのではそのような民謡も消え去ります。
昭和の時代に辛うじて調査がされ、それまで歌われていた歌の発掘をされたのですが、その時すでに「昔は歌っていたけれど最近はもう・・」というものが多かったようです。
昭和初年にNHKで邦楽放送を担当していた、町田佳聲が地方の民謡の発掘ということも始めたそうです。
町田はその後私財を投じてまでしてその調査に当たりました。
これがその後NHKが行った日本民謡大観事業に引き継がれたということです。
明治以降、民謡の研究者の間で「これこそが本当の民謡」と考えられていたのが仕事歌ですが、その中でも「これぞ仕事歌」というのが臼の仕事に関わる歌だということです。
実は臼歌が重要だというのは江戸時代から認められていたことのようで、江戸後期の国学者で菅江真澄という人物が全国を旅して書き残したものの中に各地で歌われていた歌が記録されているのですが、その中で最も多いのが臼歌だそうです。
臼をひくという作業は一人ではやりづらいことのようで、複数で行われることが多かったのですが、特に力仕事に男も加わり、男女で作業することがあったため、自然と歌も出やすかったという事情があるようです。
民謡という言葉が現在のような歌を指すものとして定着したのは戦後になってからです。
それまではそのような歌を指すものとして、俚歌、俗謡、巷謡などという言葉が使われました。
実は「民謡」という言葉は中国由来の漢語ではあるものの、ほとんど使われないままの死語のようなものだったのです。
しかし明治時代末期からの文学運動の中で民謡という言葉も取り上げられ、特に上田敏により使われるようになりました。
なかなか複雑な背景があるのが民謡というものなのでしょう。