「歌う国民」といっても、昨今のカラオケで老若男女問わずにマイクを握るという状況は触れていません。
本書副題にもあるように「唱歌、校歌、うたごえ」で表される、明治時代から昭和前期くらいまでの歌をめぐる状況について語っています。
本書冒頭に取り上げられているのが「夏季衛生唱歌」というものの歌詞です。
さみだれふりて空くらく 学びの窓はうちしめり
うめの実きばむ時はきぬ かびのはえるはこの時ぞ
この導入部からして、何か変だなと感じさせるものですが、その後に続く歌詞はさらに具体性を増していきます。
こういった調子でなんと20番まで、食品衛生についての教えが続いていきます。
これは明治45年の月刊楽譜という音楽雑誌に掲載されたものなのですが、現在のように音楽=芸術という観念が強い状況から見れば相当な違和感を感じるものとなっています。
しかし本当に「音楽=芸術」なのか。
どうやら明治初期に西洋音楽を導入し日本人の国民意識を変えようとしていた人たちにはそのような感覚はほとんど無く、こういった国民意識改革の方が重要な命題だったようなのです。
まず「国民」というものを作り上げる、そのためのツールとして音楽も使っていくという方向性が強く、それだからこそ東京音楽学校の前身、音楽取調掛は明治12年という早い時期に設立されました。
その意義はブロの音楽家を育てるなどと言うものではなく、国民に国家というものを教え込む道具としての音楽を作り上げるということでした。
唱歌というものも、その方向で作られ使われたものでした。
現在、唱歌と言われているものには実際にはそうでないものも多く含まれています。
「文部省唱歌」というものが制定されたのもあくまでも国民啓蒙のための手段でした。
文部省唱歌だけでなく、あの「鉄道唱歌」も唱歌という言葉が使われています。
その類の唱歌はもはや記憶されていないものの数多くありました。
冒頭の衛生唱歌ばかりでなく、郵便貯金唱歌などと言うものもあり、貯金奨励の意味をこめられました。
唱歌は歌われるだけではなく、体を使って踊って覚え込ませるということも行なわれました。
これは、特に運動の機会の無かった女子に対して体操の代わりとしての意味も持たせました。
その系譜が現在のラジオ体操まで続いています。
学校の行事の際の歌、卒業式の「仰げば尊し」や「正月」(祝日大祭日唱歌)も行事の意義と共に皇国史観を刷り込む道具でした。
学校の校歌というものもこれと同様の意義を持たされました。
現在の学校の校歌として残っているものもこの時代のものがかなりありますが、あまりにも皇国史観の強すぎる歌詞は一部改変されているものもあります。
ただし、まったく現代風に作り変えるということも難しいようで、そういうものは主流とはなっていません。
同様の意味で作られた「県民歌」というものもほとんど残っていません。
長野県の「信濃の国」だけが生き残っているように見られるために、長野県の県民性などと言われることもありますが、実際には他の県でも同様に作られていました。
ただし、信濃の国はかなり出来が良かったこと、その後の使われ方も良かったために残ったようです。
こういった歴史があって、現在のようなカラオケブームになったのでしょうか。
そこまではこの本は答えてくれていませんでした。