爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「絵画と写真で掘り起こす『オトナの日本史講座』」河合敦著

学校で習う歴史の教科書にはいろいろな写真や絵画が挿絵として使われており、そのイメージは今でも残っているという人も多いでしょう。

しかしそれらの絵画や写真の意味というものは正確には知らないのではないのでしょうか。

その中に含まれている意味を知ると意外なものも多いようです。

 

戊辰戦争のクライマックスともいえる、江戸にまで押し寄せた官軍の総攻撃間近となった時に、西郷隆盛勝海舟が会見を行い江戸が火の海となるのを避けたと言われており、その場面を描いた絵画「江戸開城談判」は教科書にも掲載されており、この話し合いで決まったという印象を持たれるようです。

しかし、この絵画は昭和10年に結城素明という画家が西郷吉之助と勝精(二人は海舟・隆盛の子孫)に依頼されて作成したものです。

当時の様子を写すものではありませんし、またこの会談ですべてが解決したわけでもありませんでした。

勝は幕府の幕臣たちを統制できていたわけではなく、不満を持つ人々は次々と脱走し北へ向かい、幕府海軍も軍船を率いて北へ、さらに上野に武装して立てこもりました。

西郷も実権を失い失脚してしまいます。

結局はこの会談はあまり効果のあったものではなかったようです。

 

ジョルジュ・ビゴーというフランス出身の画家が描いた風刺画もあちこちに掲載されているので見たことはあるものです。

社交界に出入りする猿真似の紳士淑女」や「朝鮮を狙う清と日本、漁夫の利を狙うロシア」といった絵は有名なものでしょう。

ビゴーはフランスで美術の初歩を学び20歳の時に来日、画家教師などをしますが、1887年に雑誌「トバエ」を創刊しました。

雑誌と言っても中身には文章はなくすべて風刺画でした。

その発行数はわずかなもので、創刊号は150部、その後も読者はせいぜい数百人といったもので、ビゴーの絵が日本の政治に与える影響はほとんどありませんでした。

そんな無名の存在だったものが歴史の教材ともなったのは、戦後の教科書からでした。

著名な歴史学者服部之総が戦後にビゴーの作品を大きく取り上げたことで知られるようになりました。

なお、日本に永住するつもりだったビゴーですが、明治32年に日本人の妻と離婚して日本をさりました。

居留地が無くなる情勢の中、外国人の特権もなくなるとみてのことでした。

 

目で見える絵画や写真、そこから作られる歴史のイメージというものは実際とはかなり違うもののようです。