爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

世襲政治家とはどういった存在なのか。

政治家、特に自民党議員の多くは世襲と言われています。

父や祖父なども政治家という例が多く見られます。

今時、個人商店や町工場でも父の後を継がない息子というのが普通ですが、なぜ政治家だけが世襲なのか。

その理由を歴史的、社会的に考えてみました。

 

縄文時代には集団もさほど大きいものではなく、せいぜい数家族単位での行動だったのでしょうから、そのリーダーというものも自然に決まっていったのかもしれません。

しかし弥生時代に大掛かりな水田耕作が始まると集団も大きくなりそのリーダーの存在も重要になります。

その選び方ということが大きな問題となります。

 

実力本位か、血統重視かということがいつの時代でも重要だったのでしょう。

 

おそらく、平和な時代であれば血統重視、戦乱の世では実力本位となったのではないか、これは単に素人の想像ですが。

 

その明確な根拠となるのが、戦国時代から江戸時代にかけて起きた現象でしょうか。

戦国の世では一応はリーダーの血筋でなければ後継者にはなれないとしても、長子でなければならないとは言えず、それ以外の末子や庶子であっても実力が勝れば地位を奪うことが頻繁だったと思います。

ところが太平の世の江戸時代となると状況は一変。

下手に順序を狂わせて相続させるとお家騒動となるのでは逆効果。

かなりの「ぼんくら」であっても相続は原則通りとなるのでしょう。

いや、「ぼんくら」だからこそ良かったという場合も多かったのでは。

 

これは大名家や上流武家ばかりでなく、商家でも大きなところではそうだったという時代小説の描写は多くあります。

主人は道楽でもやって遊んでいた方がかえって家はうまく回り、商売はできる番頭などに任せるということが行われていたということです。

 

しかし江戸時代も厳しい状況となるとそうもいかず、実力本位の状況が復活していきます。

そして明治以降になると経済界でも「ぼんくら当主」の出る幕は無くなり、血縁者ですらない者がリーダーとならざるを得なくなりました。

「創業者一族の追放」などと言う事例が新聞紙面を賑わせることが多かったのですが、それすら最近ではあまり見なくなるほど徹底的に進んでしまったのでしょう。

 

ところが現代でも「親の七光り」が効果を発揮する社会があります。

一つが芸能界、そうしてもう一つが政界です。

芸能界で成功する要件の大きなものがファンの支持ですが、これには実力以外、血筋といった要素がかなり左右します。

特にはっきりと表れるのが歌舞伎の世界ですが、それは皆さんよくお分かりのことでしょう。

ありそうでないのが、プロスポーツの世界。

これも人気がかなり重要なのですが、それ以上にやはり実力が伴わなければどうしようもありません。

スター選手の息子が一応その世界に入ってはみたものの全く目も出ないという例は頻発です。

たまに「親も選手」という例が珍しいほどです。

 

こう見ていけば、政界で「親の七光り」が幅を利かすのも理解できます。

つまり、選挙といういわば人気を競うようなイベントでは「親の人気」というものが有権者の投票行動を強く左右されるのでしょう。

そのため相当な「ぼんくら」であっても当選可能ということです。

 

なお、かつての商家ではぼんくら当主であってもうまく商売が回るのは有能な番頭などが店を切り盛りしていたのですが、現代のぼんくら議員はどうなのでしょうか。

やはり選挙区内のことに関しては有能な秘書たち、後援会のお偉方がすべて上手くやっていくのでしょう。

肝心の政治に関してはこれもやはり、ですが、官僚たちがよろしくやっていくということです。

これが自民党政治の基本であり、「政治は官僚、利権は議員」というものでしょう。

それになたを振るおうとした民主党政権はあっけなくつぶれてしまいました。

 

途上国などでとんでもない大統領が長年君臨する例があちこちに見られますが、それを未開国の政治などと軽蔑するわけにもいきません。それ以上にひどい例が日本の世襲政治でしょう。