家族というものがどんどんと壊れていっているような現代です。
しかし、家族とは「自分のいのちの受けとめ手が一緒にいること」だそうです。
その家族がいなくなるということは、いのちが受け止められなくなってしまうということでもあります。
そのような事態はいくらでも目にすることができます。
自殺と中絶、認知症となった老人など、重たい話題を取り上げていくと、自分が生きていくということ、そこに家族が関わるということがどういうことか。
そしてそれがどんどんと薄れていくのはなぜかということが見えてきます。
家族関係が希薄になっていったのにはやはり資本主義に個人まで取り込まれていき、完全に個人本位となってしまったのが影響しているようです。
それが露わに見えているのが、家族の食卓でも皆が携帯電話を手放さないことです。
食事中でも着信があるとそちらに目を向けます。
家族の食事というのは物を食べるというだけでなく家族の関係性を確認する重要な時間なのですが、それすら個人の都合が優先されます。
縁者がいないまま死亡し「無縁死」とされてしまう人が多数います。
結婚しない、子どももいないという状況のまま亡くなると、もはや兄弟や甥姪がいたとしても遺骨の引き取りを拒否され行政が無縁仏として処置します。
そうではなく、実の子が何人もいるのに所在不明となってしまった老女も居ます。
特に子供との関係が悪かったというのでもないのですが、子供たちはみな「別の兄弟のところにいると思っていた」と言い、結局どこに行ったのか分からなくなったということです。
その家族観というものの希薄さは怖ろしくなるほどです。
自殺と中絶というものが非常に多いのも日本の特徴のようです。
自殺は中年男性と老年女性に多いといことで、そこにも家族関係の問題が見えてきます。
ただし、この本は2012年の出版ですので、最近のコロナ禍で若い女性の自殺数が急増していることは範囲外となっています。
それについて男女の家族関係の差を論じていますが、それは今では少し変化しているということでしょうか。
自殺の状況を見る時、1997年という年が転換点になっています。
安心と安定という社会状況が失われていき、さらに自殺に行き着く人々が増えていった年ということです。
中絶は実数というものが分かりにくいものですが、出生数と比べて大差ないほどの数となっており慄然とする現状です。
ただし、さらに増えることはないということですが、それは単に避妊技術が向上しただけで出生にはつながらないようです。
所在不明、行き倒れ、無縁死といった事例が多発する過程に共通するのは「いのちの受けとめ手」が居なくなったということです。
家族という存在自体がいないという人も増えていますが、それ以上に居ることは居ても皆が自己本位主義的な考えとなったために孤立化してしまうのでしょう。
この辺の事例は、著者の自身の親の例も引きながら説明されています。
著者の親は90代になり自宅での介護も不可能となり老人ホームに二人で入所しました。
そこに著者は1週間に1回訪問し、2時間滞在して帰ってきたそうです。
それはそれ以上の関与はしない、できない状態でもあります。
社会の行く末について、絶望感しか持てないような読後感です。