名前だけは聞いたことがありますが、どのような音楽を作ったかという知識がほとんどなかったのがエリック・サティでした。
(なおネットで探してみるとピアノ曲は聞いた覚えがあるものがあります)
そのサティは生き方という面でも周囲に様々な波紋を広げるようで、多くの人と交わり影響を与えつつ摩擦も起こしていたようです。
そのようなサティが書き残した言葉には深い意味を持ち読んだ人間の心を揺さぶるようです。
それを音楽学者で同志社大学教授の椎名さんが30選び解説しています。
サティの文章はいくつかにグループ分けできます。
一つは楽譜の指示書き、次にエッセイなど、そして歌詞や台本といったものです。
それにさらに書簡もありますが、サティから手紙をもらった人々のすべてが公開に同意しているわけではなく、全てを尽くしたとは言えないようです。
そのような文章の中でももっとも有名なのは「歯が痛い鶯のように」という楽譜に書かれた演奏者への指示だそうです。
次が「私は音楽家ではない」というエッセイ。
「ラヴェルはレジオン・ドヌール勲章を拒否したが、彼の音楽全体がそれを受け取っている」
という文もありました。
これにはサティとラヴェルの関係を理解する必要がありそうです。
ラヴェルはサティより年下で、最初にサティに紹介されたときにはまだ18歳の音楽学生だったそうです。
それからどんどんとラヴェルは才能を開花させていったのですが、第一次世界大戦にはラヴェルはどうしても従軍したいと熱望するような愛国的態度だったのに対し、サティは愛国主義には懐疑的だったことで彼らの関係も冷めてきたようです。
「私は白い食べ物しか食べない。ゆで卵、砂糖、・・・・などである」
実際にそうだったようですが、そこには18世紀フランスの雰囲気があるようです。
その頃はフランスでは白い食べ物は高級なものとされていました。
口当たりのよい、柔らかい食べ物は英雄や勇猛な古代人たちが好むような血の滴る肉や赤ワインとは対極にあったとともに、庶民の茶色い食べ物とも対するものでした。
サティは自らを高貴な存在としていたかったようです。