陳舜臣さんは神戸生まれですが台湾から移り住んだ父親から中国の教育も受けたため中国日本両方の文化に通じていました。
晩年も神戸に住んでいたのですが、80代になった2003年から朝日新聞に週一回のペースで随想を連載しており、それをまとめたものがこの本です。
なお一回の休載も無かったということはあとがきにも書いてあります。
内容は神戸で過ごした子供時代のことや、中国に止まらず歴史の話、各国に旅行に行った時のことなど様々です。
一つの話は本で2ページでさほど長くはないのですが、きれいにまとめられています。
中でも心に残ったこと、意外に思ったことなどを。
日本ではまだ来年のカレンダーを顧客などに贈るという風習がありますが、陳さんのところに届くものは(まあ日本のカレンダー全般ですが)、「旧正月」というものを入れてあるものがまずありません。
日本ではそれを祝うことはほとんどありませんが、まだ中国などでは多くの人がそれを「春節」と呼んで祝っています。
国際化というが、アメリカに倣うだけでなくアジアの多くの人々にも目を向けるべきという当然の指摘でした。
人が死んだときに遺族がお金を払って故人の戒名をつけてもらうということがあります。
その相場は非常に高いものである歌舞伎俳優が亡くなった時など華やかな世界の遺族も驚くほどの高額だったそうです。
それを聞いた今東光さんがごく安く立派な戒名をつけたということです。
さらにその件を耳にした編集者などが今さんに無料でつけてくれないかと頼んだところ、快くポンポンとつけたとか。
その中で一人だけそれを断った人がいて、今さんがあなたの宗旨はと聞くとその人は「神道です」と答えたとか。
それに対し今さんは「あのな、おまえはな、自分の名前の下に何々のミコトとつけるだけじゃ」と言ったそうです。
14世紀の中央アジアでイスラム帝国を築いたチムールの名は「タメルラン」とも呼ばれますが、これは「ティームーリーラング」というペルシャ語がなまったもので、意味は「跛者のティームール」つまり片足の不自由なというものでした。
実際にソ連時代に考古学者が墓を開けてその遺体を調べたところ右足が左に比べてかなり小さかったそうです。
文藝などという言葉に使われる「藝」という漢字は現在では「芸」と書かれますが、これには陳さんは非常に抵抗を感じたそうです。
実は「芸」はもともと「藝」の略字として作られたものでは無く、別字で「芸」(うん)という文字でした。
「芸」(うん)は香草の名前であり、またそれを書物に挟むと紙魚が付くのを防ぐとされて古来読書人は本の栞として使っていました。
その意味で使われる熟語も多く残っており、また人名としても使われました。
日本でも江戸時代に千葉芸閣、片岡芸亭という人たちがいました。
また中国でもジャーナリストで王芸生という人物があり、日本に関する書物も出版した日本研究家でもありました。
これも日本読みでは「おううんせい」とすべきですが、日本の研究者でも「おうげいせい」と読む人がいたそうで、陳さんは遺憾に感じたそうです。
左と右のどちらが上位か。
日本では唐の制度に倣っているために左が上ですので、左大臣の方が右大臣より上になります。
中国でも唐以降は「尚左」(左をたっとぶ)でした。
ところが漢時代以前は「尚右」であったそうです。
「左遷」という言葉もその時代にできたために「左に遷される」のは下位に飛ばされることになったということを示していました。
「右に出る」というのもその時代から使われていたようです。
この調子の話を毎週何年にもわたって続けていたのですから、陳さんの博学多識というものは怖ろしいほどのものだったのでしょう。