爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「野球と戦争 日本野球受難小史」山室寛之著

明治時代に伝わってきた野球は大正から昭和に年号が変わる頃に中学野球や大学野球を中心に空前の繁栄を遂げます。

しかしその直後に戦争の時代となり、アメリカ生まれのスポーツと見られた野球は徐々に制限を加えられ、最後はほぼ禁止されることとなります。

そういった時代の野球について、大きな大会から地方のごく小さな試合に至るまで記録に基づいて詳細に紹介していきます。

 

著者の山室さんは読売新聞に入社、その後巨人軍の球団代表も務めるということで、野球については非常に詳しく、さらに関係者のインタビューなども多数行ったということで戦争の時代の野球について多くの記録を集めたそうです。

 

多くの試合の描写の中には主要メンバーの氏名からその後の野球人生まで略記されていますが、中には最後が「殿堂」で結ばれている人もいます。

これはあの「野球殿堂」に入ったということでしょうが、そのような華やかな野球人もいます。

しかし多くの選手の略歴では最後が「戦没」で結ばれています。

ちょうど戦前に学校で野球をして活躍していた人の多くは出征し、そしてその中の多数の人が戦死または戦病死しました。

 

ちょうどまた、野球というスポーツが注目を集めている時期ですが、その遠い先輩たちがどのような野球人生を送ったか、振り返ってみる必要があるのかもしれません。

 

ちょうど昭和になった頃、日本野球は黄金時代とも言える繁栄をしていたのですが、その主役は中等学校野球大会と大学野球、特に六大学野球でした。

毎試合の観客は球場に入りきれないほど、大学野球にも金が溢れるほどに流れ込み、それをめぐる不祥事も起きていたようです。

優勝チームの選手たちをアメリカ遠征旅行に連れていくということも行なわれ、まだ船旅の時代ですからその期間も数か月とういものでした。

あまりの人気ぶりに小学生も人気中学への進学を目指して朝早くから練習をしたり、中学入学時にスカウトされて奨学金と称し金が渡ったり、中学も有力選手を転校させたりと多くの不祥事が連続したそうです。

 

しかしそのような時代もごくわずかの間だけで、徐々に戦争の影響を強く受けるようになります。

特に文部省は野球の制限に積極的だったようで、あれこれと介入を強めていきました。

 

野球がアメリカ生まれのスポーツということも制限の口実とされましたが、一方ではラグビーは兵士の戦闘能力向上に役立つなどと言われて奨励されたりと、あまり一貫したスポーツ行政ではなかったようです。

 

それでも太平洋戦争開戦となるともうスポーツをするという余裕もなくなり、各学校の野球部も解散し辛うじて道具のみは倉庫の奥に隠されるということになります。

それが敗戦後に役に立つ場合もありました。

 

終戦の翌年、昭和21年には早くも中等学校野球大会再開となるのですが、場所は甲子園ではなく西宮球場でした。

その予選はまだほとんど道具もそろわずまた練習もできないということで、かつての強豪校でも大敗するという例が多かったようです。

そして予選突破となっても大会のために会場に向かうというのが大変なことでした。

食料も自分で持っていかなければならないということで、野球用具の外に米を担いで列車に乗るのですが、当時はまだ交通事情が極めて悪く超満員の列車に何とか乗り込みしかも何日もかかるところもありました。

そして列車内の治安も悪く米を盗まれたりやくざと揉めたりと大変な思いをして向かったそうです。

 

野球というスポーツが日本人の心に深くしみついているのはこういった歴史があるからでしょう。